終わりなき産みの苦しみ。(丸の内めぐり編)

この場合の苦しみとは、「文章」をつくり出す産み、「作品」をつくり出す産み、「原稿」をつくり出す産み、のことだ。

ただ簡単に作り出されたものは、再度見ればつまらなかったりする。

それもそれでとてもつらい。

丸の内探索

本当に苦しい。いつもながら。終わった後は楽になるけれども、今回は最終目標(出版)が達成できなければ、楽にはならない。

ここまでやってきたのだから、最後まで完璧にしたいけれども、限界はある。

でも、限界ってなんだろう。自分で決めた限界なんて「限界」っていうのかな。

また、原稿と向き合えば、産みの苦しみが待っている。さしあたって考えた言葉はだめ。絶対。必ず見抜かれる。

本当は怖いんだけどね。結末が。

まだやってもいないのに結末考えてる。

このままじゃいけない。

じっくり時間かけて、いいものを作る。

焦る必要もないのかな。

それだけが唯一救いかもしれない。

丸の内ビル群

その不安、本物ですか?思い込みというフィルター。

人は不安になると、物事にフィルターがかけられます。

ものごとに対して、直視したくない、もしくは「思い込み」というフィルターがかけられてしまうのです。

私もつい最近、それをやってしまったのですが、一応ものを書いている身分として、文章のやりとりは気を配っているつもりですが、自分の気分が悪いときに相手から私宛の文章を見たのですね。

その時見た文章は、「明らかに私を攻撃している」と思い込んでしまったのです。そんな文章「見たくない!」と思い込んで、完全にその文章にフィルターをかけてしまったのです。「相手は私のことを悪く思っている」とフィルターをかけてしまっていたのです。

カーネーションの写真にモノクロのフィルターをかけました

でも、見たくないと思っていた文章に向き合わなきゃと思い、私はそっと読み直してみたのです。

なんと、その文章は私が原稿に書いた一文だったのです。ちゃんと読みもしないで、気分が悪いからと、相手がひどいことを言ってきただなんて、八つ当たりもいいところですよね。

私は、自分の嫌な感情で「大切な文章」にフィルターをかけていたのでした。

そして自分も余計な神経を使ってしまいました。ひどい話です。笑

反省です。

でもこのように、自分の気分が安定していない時は、相手の言動が悪く見えてしまう、もしくは攻撃されているかのように感じてしまうこともあるかもしれません。

常に冷静な対応ができればいいのですが。

思い込みもほどほどに。人を信じることはとても大切なことだなと思ったのでした。

「文章」使用上の注意。

つい最近まで何も考えず、自分の好きなことを好きなように書いていました。

たしかに人に読まれるコンテンツというのはとても大事だと思います。

長ければ、誰も読む気にならない。実際いま書いているこの記事も、一瞬見た途端読む気にもならないのでは、と考えながら書いています。

長い内容に関して言えば、これが私のスタイルと思ってくださると嬉しいです。なぜ長い内容を書いてしまうのでしょうか。自分で言うのもなんですが、こんな人もいるんですね。

なので、この長い文章で読む気にならない方、どうも苦手だと思う方はもしかしたら、相性が悪いので、残念ですが読まないほうがいいのかもしれません。

では、私の書いているコンテンツはあまりいい内容ではなくなってしまうのでしょうか。

自分で言うのもなんですが、そうは思っていません。読んでみたいと思った方に読んでいただければと思います。

このようなことを書けば「ライターは読まれてナンボ」と言われたことがあるので、もちろん読んでくださることはとてもありがたく、ここでまずお礼を申し上げます。

花を見ていると本当に落ち着きます。

私自身ライターとして、ものを書いてきましたが、2,000〜3,000字の短いコンテンツはあまり書いたことがありません。書くことを始めて6年ほどになりますが、全くの素人でした。

ではどんなことを書いてきたのか。それは長編ノンフィクションです。

小学館ノンフィクション大賞や開高健ノンフィクション賞、群像の評論賞です。1,600字を200枚〜300枚(応募要項の記載にあるとおり)など書いてきました。ところがはっきり言って文章なんて、まるでルールを無視して書いていました。「伝わる文章」なんて考えたことなかったのです。

こうして書いている長い文章も、同じことが言えるかもしれません。たとえば、

◉文章はシンプルに。

◉わかりやすい言葉。

最近やっと意識して、書かなければいけないと気づかされたことでした。

文章にも使用上の注意があります。

長い原稿を書いているのだから、文章も長くなって当然と頭のどこかにあったと思います。

それは、ちゃんと知っておくべきことです。ただ書けばいいってものではありません。

このブログは書く練習のために作ったブログですが、いまは結果オーライだと思っています。

なぜなら、気づくことが多いからです。

ご指摘、感想など受け付けております。

ありがとうございました。

嫌われる勇気とマイナスからの文章。

私はマイナスから文章を書くスタートだった。

ゼロからのスタートではない。もともと大学は文学部を目指しているわけではなかった。文章の書き方を学んだわけでもない。論文を書いていたわけでもない。

初心者の私には教えていただく師はいたけれど、誰かしらに自分の文章を認められることはなかった。だから自分の文章に残念ながら自信があるわけじゃない。

私はある講座で「ベートーヴェンとカタルシス」という題で文章を書いた。2,000字くらいだったろうか。題名は私が考えた。

まず、カタルシスとはなんぞやとあれこれ調べた。それから、私が好きなベートーヴェン生誕250年について書いていった。

書いたものを提出した結果、返ってきたコメントは散々だった。スムーズに読めない。ということだった。その「スムーズに読めない」の一文の後、けちょんけちょんに言われているようだった。

この女性はどんな経歴の持ち主なのか?大学は?本でも出してるの?なんの実績があるの?まったく略歴のわからない人に、ここまで言われるのは残念でならなかった。

でも…とにかく…褒められた人はいいだろう。また、頑張ろう、次はなんの話を書こうかな、と思わせるのが狙いなのかなと思った。おそらく脱落していった約8割が「いったいなんの講座だったのか?」と思っているに違いない。文章の講座か?内容の提供、コンテンツの提供の仕方か?

今回こんなことを言ってしまって、つまりタイトルの嫌われる勇気を持っていま、疑問に思ったことを書いている。

話は変わるが、その「嫌われる勇気」の共著者の古賀史健さんは「考えるために書きなさい。理解したから書くのではない」と述べているそうだ。「書くことで考えが整理される」と論じている文章術の著者は少なくないという。

だからとにかく毎日たくさん書いて、自分で褒めること。書かないと上達しないから。ということで、多くの方に読んでいただき感謝していますが、またお手隙の際にはこのブログを読んでくださると、とてもありがたく思います。感想もありがたいです。

最後に、「一番好きな文章」を見つけること。「こんな文章書きたい」と心から思える文と出会えるまでたくさん読む。

私が一番好きな文章はいまのところ、開高健の「輝ける闇」の「森は静かだった」の一行で終わっている文章だ。この本を読んだ方にはわかる終わり方で、とても好き。

でも私はまだ本を読まないといけないみたい。名文探しのために。

それにしても、今回は毒を吐いてしまいました。

申し訳ございません!笑

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

どうせなら100%にするための技法。

私はいちおう文章を書いているが、タイトルに「文章」の文字はあえて入れませんでした。これから話すことは、一つのことに限らず、多くのことに当てはまると思うから。

それは何か。

文章についてや、他ジャンルの人たちからパフォーマンスを100%の出来にしている技法を考えてみた。

100%のパフォーマンスを出すために、共通していることがある。もしくは共通させることができる言葉がある。それは「美しさ」だ。見た目だけの「美しさ」ではない。じゃあ、美人や美男子。といった話ではないのですが。

その「美しさ」とは最高峰の人が最高に厳しい複雑な状況にいるときに必要とする直感であり、そこに「美しさ」を見出せるかどうかである(この内容に関しては、また後日書きます。わたしもテーマにしたいので)。

まず、フィギアスケートの選手。羽生結弦選手である。

たった一人でリンクの中で滑る姿は、美しくもあるが、アスリートそのものの姿がある。

それと、リンクでの究極な精神状態と思考の中、それこそ考える「美しさ」を備えて滑る姿は楽しんで滑っている。「楽しんで滑って」の意味は、「競技」ではなく「自分を創り上げること」である。

つまり、誰かに負けないために競うのではなく、自分の向上心のためにたたかっている、ということだ。

世界選手権2021の時の羽生結弦選手

そう、わたしは羽生結弦選手を見るたび思っていたのは、「滑ること」すべてを自分のものにし、「喜び」でいるということ。それは見られることの快感だと思う。創造することを楽しむことができる、ワクワクすることができるそのような人ではないだろうか。それは才能もあるのかもしれないし、自分に限界を作るわけではなく、自由に自分を高められる人。アスリートにして、アーティスト。

どんなに練習しても舞台では100%の出来にするのが難しそうなフィギアスケート。先日、世界選手権2021が行われていたが、選手たちは優雅に滑っているけれどもアスリートとしてかなり鍛えて大会に臨んでいる。なのに、100%の結果が出るかといったら、わからない。たとえ100%の練習を積んできても、力を出していても、思うような結果が出ないなど本人たちにしてみたら結局結果が全てなので、相当な精神的にも耐えられるよう鍛えているのだろう。

ちなみに、(わたしの好きなピアニスト)Lang Lang(いやランラン に限らず)だったら、今日の演奏は最高だった、とか、いつも演奏は完璧な出来、つまり100%の出来にしなければ、それは世界的ピアニストと称されないのかもしれない。自分のパフォーマンスのために常にウォームアップさせているのだろう。いや、させているのをSNSで見た。

またもや世界的中国人ピアニストラン・ラン

「自分はそれだけの練習をしてきたのだから」と物事に取り組むことは、最高峰にいる人には必須である、と言い切れる。

わたしは自分の書いてきた過去のブログを読めば、ただの記録でしかなく、誰が読むわけでもないと思って書いていたので、「ただのメモ書き」のようなものだった。書いたものを読んでいると、今まで書いてきた中で、お気に入りの記事はまだない。強いていえば、LangLangのことを書いた投稿ぐらいだろうか?すみません個人的な好みで。クラシック好きな方ぜひご覧ください。それにしても、あの投稿の内容すら中途半端に終わらせてしまっている。

話はさておき、

まずは、文章って「100%の出来!自分の文章って完璧。自分の文章いいよね。」って思う人はどのくらいいるのだろうか。

本のジャンルにもよるのかもしれないが、やはりいい文章といえば小説。わたしは昔「美しい比喩表現」を考えたりしたことがある。

わたしは「文章とは”芸術”だ」と思っていて、「比喩表現」といえばもう、高度な芸術の技能とさえ思う。この「比喩表現」を巧みに使う、「凄い文章界の芸術作家(わたしがそう称している)」といえば、たくさんの作品や人名が出てくる。わたしに文章の比喩的表現を指導してくださった方がいた。その方は、吉本ばななを絶賛していた。それから、やはりネットでもよく目にするのは村上春樹で、比喩表現を巧みに扱う作家である。

これはもう、センスの趣味趣向(書き手にも読み手にも)もあるから、もしかしたら、村上春樹もセンスをアップデートさせたら、その時は今度こそノーベル文学賞ものかもしれないと、最後は勝手に考えてみた。

ところで、日本は国をあげて、国民に芸術を身近なものとして、親しんでもらうために、コンサートやイベントをもっと大々的にやってほしいと思う。もちろん、心からのコロナの収束を願っての話だ。

わたしも、もっと思考を深めて おもしろいこと考え、書きたいと思う。それには学習はしなければいけない。

今日は「休日」ですが、いまだに私のブログのジャンルが見えてこないですね……。何かご意見等ございましたらコメントください。

今回もお付き合いくださりありがとうございました。