文章を書いていると、しんどい。生きることと同じかも。

ブログをこのままここに書くか、noteに移すか非常に迷っている。ちなみに、noteはペンネームで書いているのだが、テーマがまったく違うので、とりあえずブログとしての内容はこちらに書いている。

最近、何でもないことが上手く書けずにいる。要は、文章を書くことがしんどくなっているのだ。と言っても「テーマ」が決まっていれば書くことはできるけれど、日常的なことを書こうとすると、しんどくなってくる。

人は「目標」や「目的」が見つかると、そこに向かって行動できるのかもしれないが、なんてことのない日々の生活って、しんどさを感じたりしないだろうか。

一点に集中することって邪念が入らないから、たとえしんどさを感じても、スムーズにことが運ぶ。

でも、なんてことない日々が続くと、しんどくなってくるのは私だけ?

ただいま、まさにそんな中にいる。

けれどだ。ずっとこんなことが続く訳ではない。なんてことないいまは、一旦大きな仕事を終え、途方に暮れているのであって、やがて、また山は登らなければいけない日々がくる。

なんて、結局いまの自分には、こんなことしか書けない。

時がたてば、この先やらなければいけないことが見えてくるだろう。それまで、私はじっとして、誰にも告げることなく、次にやってくる現実に向き合わなければならないのだ。

その時は嫌でも前に進まなければいけない。

どうなるんだろ、私。

結果は嫌でもわかる日がくる。

頑張ろ!

こんな詩のようなものを書いてみた。

4年前のある時、こんな詩のようなものを書いていた。

『SNSでしか会えない僕らは

同じ時間を共有していても

お互い見ているものが違う

幸せと思えたはずの

一瞬通じ合えた僕らの心は

本当は何ひとつ

重なることなどないのに

共感し合えたあの幸せな時間も

本当のきみの姿を

本当のきみの心を

本当のきみの笑顔を

ただ見ていたかっただけ

それなのに 見えない真実が

現実に溝をつくっていく

わが心の想い悲しけれ……

思い出だけが記憶にとまり 投稿だけが流れていく

そんな世界に僕らは生きている』

思いつきで書いた。これを書いた時は楽しんで書いていた。

批評・感想いただけたら嬉しいです!

あなたは変人になれる?やっぱりカミングアウトは悪くない。

真面目な話。いや、私は真面目な話しかしていなかったような気がする。昔、小泉純一郎は変人と呼ばれていたけれど、それは褒め言葉、よい意味のようだった。

私変人になりたいなあ。変な人?変わった人?私精神病んでますし。ほぼ引きこもりで何かしら書いております。

それにしても「障害者も健常者も、マイノリティも風俗やっていようが、なんだろうが、みんな同じなんですよ!」って書いてあったブログを見て、そんな人が「私障害者です!〇〇クラブで働いています!ニートでした!」とかそのような話が面白いのだろうかって思ってた。

だから私はダイバーシティやインクルージョンを真面目に原稿を書いていた。それもつまらなかっただろうか??

80キロからの脱出、うつからの脱出、そんなこと、いくらでもありますねん。ちなみに私は80キロではありませんが、身長のせいか大きく見えるらしい。泣

でも、そのような話が「本」になっちゃうのですよ……。

真面目に厚生労働省のホームページ開いて、統計眺めて書いている私は悲しいと思ったことがある。だってそのような内容の方が本にならないんですもの。

と言うことで、私もしかしたらカミングアウトできれば、「キャラの確立」ができるわけなのですよ。「世の中」ではなくてこの狭いSNSという名の下にですね。変人になれるのですよ。

でも前回書いたように、無名の物書きがカミングアウトしたところで、面白くもなんともないのです。多分。

私は「愛」について語りたいなあ。

大切な人いるのに、気づいていただけないのですが。笑

ご迷惑な話ですよね。

不確かな想い。2

初秋。犬の散歩の朝はもう肌寒い。

水面に立つ波が見たくて桟橋へ行く。

ここへ来ると何かが浮かんでくる。あの人の言葉。

「それを書く価値はある」。

そういつも励ましてくださる。褒められるとそれが嬉しい。

初めて会ったこと。

今でも覚えてる。

今日も空っぽの頭の中、必死に言葉探してる。

書くことがこんなに苦しいなんて。

それでも、自分の道を曲げられなくて。

こんな私でも、どこかで見ていてくれると心の中で信じてる。

現実は厳しくても。

あの時見た携帯を打つ、うつむく姿に、細い指。

私は釘付けになった。

本人はわからない。告げたいこの想い。

どうか気づいて欲しいけど、私の夢が現実にならない限り、

この想いは届かない。告げられない。

メッセンジャーでは通じない。

高杉晋作も愛すべき人になるのかな。

人を幸せにしたいのなら、凡人より変人(天才)を目指せ。

人を幸せにすることは自分も幸せになることです。

これをはき違えている人が実は多いのです。本当に他人に優しく、他人を思える人は別ですが、人を大切にできる人は自分も大切にできる人です。

変人(天才)と呼ばれたり思われる人というのは、その間に悩まされたりもします。変人は自分がどう思われたいかなど考えず、「どうすれば相手も傷つけずに問題がスムーズに解決するのか」考えるのです。

では、変人(天才)とはどんな人のことを言うのでしょうか。

何事に対しても前向きに、ひたむきに、一貫して自分を通すことのできる人です。一見自分勝手のように思いますが、変人こそが、この「人を幸せにすることができる人」であり、「他人を本当の意味で大切にできる人」なのです。私の頭の中にある変人はわがままな人のことを言っているのではありません。

その反対に凡人は、「物事に対して謙虚になってしまう人」「人にどう思われるかが気になってしまう人」「すぐ自分が悪いと思ってしまう人」です。「自分を大切にする心」は何より大切です。

「謙虚になること」と「前向きになること」は全く違うことは、皆さんにもわかることだと思います。ですが、謙虚になることで、「私はいい人」とどこかで思い込むのはちょっと違います。謙虚さは、相手をがっかりさせたりしているかもしれません。「自分は出来る!」と思うことが怖いと考えてしまうことはないでしょうか。

あなたは誰に遠慮していますか?

大切な人を守れますか?自己犠牲せずに……。

人の心に強く残る美しい文章。

『プラトン、

アリストテレス、

ソクラテス、

1000年前の文化、

哲学、

知恵はどうなってしまったというのだ?

小型飛行船からさらに爆弾が降ってくる。

気持ちを引き締めなければいけない。

共同墓地。

他に残された可能性はない。

すると桜の花に気づく。

そして自然は全く影響を受けていないことに気づく。

ポプラ並木、

赤い蝶々、

儚い花の美しさ、

太陽。

自然は全く意に介さないのを目の当たりにする。』

これは2016年にノーベル文学賞をとったボブ・ディランの文章なのですが、すみません、どこから引用したものかわからなくなってしまいました。

私がここに書いた理由として、「内容」「美しい言葉」端的な無駄のない「文章」に魅せられたのでここに書かせていただきました。

誰にでも理解出来、情景の浮かぶ内容です。だから心に沁みるのでしょう。

こんな文章、書けることを望んでいます。

正常と異常について。(お題2)

前回のお題に続いて、2回目。

私は、正常と異常の間を行ったり来たりしている。いや、異常と言われたこともある。

そもそも、正常と異常とは何か考える。

正常とは、人が「普通の神経」をしていることか。では普通とは?

人がそれをみて「意識」しないこと。主体に対して「思考」を持たないことかな。

じゃあ、「思考」を持った時点で「異常」なのだろうか。いや「異常」ではないが、「普通」でなくなる可能性はある。正常だと思っていたのに「思考」が絡むと「普通」でない論点が出てくる。ちなみに「普通」と「正常」は違う。

たとえば駅のホームである女性が背を向けて立っている。

髪の長い女性。正面からの姿はわからない。コートを着ている。髪の長い女性はよくいる。コートを着ている女性も少なからずいる。

その女性は「正常」と思われる。なぜなら、誰もが彼女を意識したり、彼女に対し感情などもったりしないまま、後ろを通り過ぎてゆくからだ。

しかし、こんな光景を人が見たらどう思うだろう。

彼女が振り向いた時、彼女はコートの下は裸体を晒していた。

誰もが女性を意識し、人の思考は働き出し、考えはじめ、嫌悪感であったり興味といった感覚や感情が湧き出る。

その時女性は「異常」になるに違いない。

「正常と異常」の間には常に「思考」がついてくるのかもしれない。

「思考」が働くか働かないか。

ちなみに、私の考え方や行動は突拍子もないこともあり、若い頃は、思いついたら国内線や国際線の飛行機に乗っていたり、夜行バスはよく乗った。好きな土地へ行っていた。これらは全て好きな当時好きだった男性のため。突拍子もない仕事のために新幹線に乗り出稼ぎに行った。これらはよくあることだ。

だから「正常」なことかもしれない。

付箋紙だらけの女。

貼りすぎだね。笑

先日、活字嫌いなどと書いてしまった。大抵私はブログを書くとき、なるべくタイトルはインパクトのあるタイトルを考える。

ネタバレ。

だから先日のタイトル「活字嫌い」も一つのインパクトとして考えたつもりだった。

企画書のタイトルはなかなか考えられないのに。

だが、やっぱり本は初めから終わりまできっちり読むことはしない。

いいのか悪いのかわからないが、とにかく最初に読むときは、また後から読めるように付箋紙を貼っていく。だが、ある本に書かれていたのは、「最初にいきなり付箋やマーカーは使わない方がいい」と言うことだった。

確かに、後から付箋紙の部分を見直すと、同じような部分に貼っている。だから貼らなくてもいいページ、同じような内容のページにたくさん貼っている。無駄なことをしている。

せっかく貼ったのにその部分を見直すことはしなかったりする。

本当に必要なページや文章がわからなくなってしまうのだ。

だから、最初に貼った付箋紙はどんどん剥がしていく。

効率の悪い作業だが、それも悪い作業だとは思っていない。

本は何度も読み直す。記憶力の悪い私にはこの作業しかない。だから私にとって付箋紙は大切な道具。

活字嫌い。

先日、ブログで「本に囲まれた部屋がいい」と書いた。しかも私は、文章を書いている。にもかかわらず、活字嫌い。

矛盾している。

でも事実である。

なんのためにものを書いているのだろうか。

活字嫌い?本当に?

ライターは表現者で、多くのことに関心を持たなければならない、と思う。

私はそうありたいし、映画、演劇、音楽、絵画と言うものを多く知りたい。

じゃあ私にとって「本」とは何か。これは前にも書いたことがあるかもしれないが、「辞書」かもしれない。初めから最後までまず読まない。必要なところから読んで、また必要になったら引っ張り出して読む。逆から読むこともある。

これが私の読書の仕方かもしれない。

「活字」に追われるのは嫌だ。「活字」を読む感覚と言うより、どちらかというと「知識」を「頭や心」で見て感じ、それが楽しくなる感覚がいい。

なんだか言っていることがわかりづらくて申し訳ないです。

本をパラパラめくって、目に止まった本の1行の文章で、何かがひらめく。

そのようなことが多い。

本は楽しい「辞書」でもありインスピレーションを与えてくれる楽しい「図鑑」でもある。

自分で言うのもなんだが、この投稿は好きである。

私がなりたい人間とは。

ここ数日、私は「書くこと」を辞めていた。怠さからいっこうに抜け出せず、ブログは書こうとしては辞めることの繰り返しだった。下書きは溜まる一方。

もちろん原稿も。

私は、正直書く気力を失った。それは病気のせいかもしれないけれど、しばらく書いていないと、ピアノを弾いていないと指が鈍るのと一緒で書く思考も鈍る。

ふっとSNSで片手で弾く子供に一生懸命ピアノを教えている動画を見た。ラン・ランだった。

私は、思った。「誰かの力になりたい」と。

偉そうなこと言っているようだが、まだ拙い子供に世界のピアニストが一生懸命教えている姿に、とても心に迫るものがあった。その動画から伝わってきた思いを忘れたくないなと、思った。

なんの経歴のない私が一体誰に何を教えられるのか、伝えられるのかわからないけど、「誰かの力になりたい」という気持ちは強くなった。

何日も自信も無くしていた。上がり下がりのある精神状態で、調子のいい時の私の書く内容はとんでもなく、突拍子のないものだったりする。だから後から読むと恥ずかしくて仕方がない。

経験しかないのかな。毎日毎日続けることかな。

大切なことをどんな人にも教えられる、伝えられる人間になりたいな。