親が導く子供の居場所。

好きなことは何?好きなものは?

3歳の頃(記憶が曖昧)だろうか、兄が通っていたピアノ教室に一緒について行った。それから私はピアノを習い始めた。母親は自分が弾けないから私に弾かせたかった、とよく言っていた。その頃の私も決して苦痛ではなかったはずだ。ただ、正直言えば、環境はあまり良くなかった。というのも、私は従姉妹とよく比べられていたからだ。

ピアノを習わせたいと思っている親御さんがいたら、一応ピアノを習っていた身として思うのはやっぱり「環境は大事」ということ。

それから、やっぱりその子にとって、「ピアノの存在がどのくらいの比重を占めるのか」。というと、なんだかわかりづらい。つらくても続けられるのか。どんなことでも「痛み」はある。

私の話をさせていただくと、私は音楽大学を出ているわけでもなければ、どれだけ一生懸命やっていたわけでもない。17歳くらいの頃、一般の大学を受けるためにピアノを辞めた。ピアノの先生は私を引き留めた。

今思うと、残念だったのは、母親はあくまで「私の意思とは別に」趣味として私にピアノを習わせたかっただけであって、プロを目指そうとさせていたわけではなかった。熱心ではなかった。だからやめることに親は引き留めたりしなかった。と言っても、別に親を恨んでいるわけではない。この頃の私も「趣味で習っていたピアノ」だったからか、練習もそこそこ、通うことすら苦痛のときもあったからだ。

でも、大人になり、あの時ピアノを続けていたらどうなっていたのか、最近考える。

というのも、今またピアノを練習し出したからだ。

一度は弾いてみたいスタインウェイ&サンズ

一つだけ思うのは、「どうせやるのなら楽しくやりたい。つらくても好きなら続けられるはずだし、自分の居場所がそこであると思ってピアノを弾くことができるのなら、続けても良かったんじゃないか」って。

「努力は報われる」と思って苦痛なピアノを弾くのははっきり言えば間違っているのかもしれない。

努力することが悪いわけではない。大切なのは「自分の居場所」を作ることではないか。

居場所が違うのに、いつまでもその場所でコツコツ努力したところで、思う結果は出てこないだろう。これはあくまで受け売りだが、その通りだと思うので、ここに書くことにした。「モーツアルトと同じように練習したから、モーツアルトのようになれる」わけではない。

私は、大人になってまたピアノを習いたくなって、練習している。大人になってから習い出しても、もう子供の頃に弾いた曲は弾けなくなっていた。実際ピアノを触ってみて、愕然としたことだった。その時はじめて、17歳で辞めてしまったことに後悔した。

その子が何をやりたいと思うのか、は大切だと思うけれども、「それ」をさせるには、周囲も努力する覚悟がないと、子供のやる気を見つけることはできないと思う。

周囲の人がどれだけその子のことを見ているか、わかっているのか「子供を導いてあげられるか」かもしれない。

だがそれは「親の使命」とは限らない。使命や義務だと思ったら、おそらく親も子も苦痛で共倒れだろう。一昔前にステージママという言葉が流行ったような気がする。子供にとって、そのような母親がいいのかどうかは、知り合いにいないのでわからないが、先に言った「周囲の環境は大事」ということだ。

周囲の環境とはどんな環境だろうか。正直なところ、「ピアノを好きになってもらえる環境」とはどんな環境かわからない。ピアノを本格的にやっている親だったり、家族がいるならまた話が別かもしれない。ピアノに限らず、いわゆる「音楽一家」だ。でも、一生懸命な親に限らず周囲の姿を見ていれば、おそらく子供も「何か」を感じるんじゃないだろうか。

ただ、もう一つ大切なのは「もしかしたら、この子には違う道があるのでは」と感じたら、無理だと思ったら、道をすぐ変えること。これも受け売りだかが、とても大事なことだと思う。親の努力が足りないのではない。本人のためにも、違う道を選ぶ柔軟性があってもいいのではないだろうか。

作られた右利き

私は子供の頃、左利きだったらしい。 スプ-ンや箸を左手に持って器用に食べていたというのだ。 ただそれを見た祖父母が 「これはいかん!右利きに直さないと駄目だ!!」 強く両親に言ったようだ。 私はその後矯正された。 そして

作られた右利き

まだ、誰かの投稿にコメントやリツイートもしたことありません。ちょっとドキドキ。

私も完全な左利き。こうしてスマホに入力するのも左で打っている。

え、右で書いてるよね…?

そう、子供の頃誰に言われるでもなく「自分で」右で書くようにしてしまったから。

反転文字?を書いていたんです。それが不自由だったのかもしれない。子供心に。

おかげで、「左利きの才能」は芽生えることはなかった。

ただ単に両刀使い、になっただけです。そんな人の脳の使われ方は、どうなっているのでしょうかね。

小休止、あなたを癒してあげたい。

バッハ 前奏曲ハ長調 BWV 846 LANG LANG

今、あなたが音楽が聴ける環境にあるのなら、この美しい曲を聴きながら、癒されてくれたら嬉しい。

ピアノの「旧約聖書」とも言われるほど鍵盤楽器奏者にとって重要なバッハによる作品集の第1曲です。

流れるような曲を聴きながら、私の駄文をお読みください。

私が物心ついた頃から、いつもそばにはピアノの存在がありました。

明治生まれの祖母がまだ生きていた頃、家でのピアノの指導はいつも祖母がしてくれていました。

祖母は山口県の有名な女学校で、外国人の先生にピアノを習っていました。そのためか、ピアノは90歳近くまで楽譜なしで弾いていました。

私にはそれがなんの曲なのかわからなかったし、祖母に聞いたとしても、おそらく祖母も曲名も何かもわからないままに、弾いていたかもしれません。

そんな祖母が亡くなり、私も実家を出て、誰も触ることのなくなったピアノは、両親が家を引き払うこととなったと同時に、ピアノも売りに出されました。

私はとてもショックだったのを覚えています。でも祖母がいなくなって、ピアノを弾けるのが唯一私でしたので、家に居なくなった私には誰を責めることはできませんでした。

現在(いま)大事なピアノは、美しい音色とともにそばにいます。

多くの美しい曲を新たに教えてくれたあなたに感謝して。

痛い、六大学野球の思い出。

私は六大学のどの大学にも行っていません。けれど私はいつも友達に誘われて、明治神宮野球場になぜか「東京大学」の出る試合にばかり足を運んだことがあります。当時私は野球にも、六大学野球そのものにも興味がなかったので、誘われるがまま行きました。私の記憶が間違えていなければ、東大は最下位で、毎回負けていた印象があります。

友達はなぜその「東京大学」の応援だったのでしょうか。あとになり、答えがわかった気がしています。本人に事の真相を聞いたわけではないので、あくまでも私の推測ですが。

そうやって毎回試合を観に行っていると、だんだん周りで応援している人の顔に意識がいくようになりました。応援団やチアリーダー、特にチアリーダーの女の子は、とてもかわいい「東大生」がいたのを覚えています。

いつからか、私は東大の応援団長さんと何回か電話でやりとりをすることになっていました。(いきなり話が飛躍してしまいすみません)ちなみに彼は鳥取から上京してきた法学部の学生さんで、細面のハンサム、今でいうイケメンでした。

ここまでは良かった。笑 そして、デートをする約束になっていたのですが、なんだか話が噛み合わなくなってきたのです。彼はマウンティングしてくるようになってきました。当時の私は東大生相手に、自分の主義主張なんて言えませんでした。というか、私も自分は下になることで逃げていたのかもしれませんね。なので、彼もきっと、私をつまらない女の子に思えてきたのでしょう。

彼はショッキングなことを言ってきました。私の友達の方がいいから、もう電話も会うこともないと。私は友達にそのことを伝えました。その後2人は会った、と言っていました。私「……」。

まあ、今だから笑って話せることですが、その時は人間不信、といいますか、「高学歴の人って、こんなもの」と思っていました。今は思っていませんが。笑

その友達は、弁護士と結婚したと聞きました。それでなんとなく納得したことは、私を東京大学の試合に誘ってきた理由です。ステータスのある人と結婚したかったのかと。それについて、私は彼女に真相を聞いたわけではありません。

彼女に幸あれ!

ところで、彼は今何しているんだろ。今なら主義主張できるよ。と応援団長をしていた彼に言いたい。