真夜中の明るい空

今週は精神的に参った参った。ここ1、2年割と順調にきていたから、久しぶりのどん底だった。

30代に1人で暮らしていた時、私を襲った孤独。初めて死がよぎった。このままひっそり都会の真ん中で消えていくんじゃないかって。同い年のタレントが亡くなったとラジオで知った私は恐怖でたまらなかった。

性を売る世界に恐怖はなかったけど、気づけば周りは私を搾取する人たちばかりだった。疲れ切っていた。でもなぜか、良かれと思ってやってきたことが、ただただ利用されていたのかもしれないと感じても、虚しさどころか、逆に自信となる自分がいた。

私は「やったのだ」。大阪に通い大金を稼ぎ、私はやりたいことを「やってのけた」のだ。端金かもしれないけれど。

孤独になると、思い出す。不夜城の真夜中の明るい空を窓から涙を流しながら眺めていたことを。

本当に人を好きになると……。

思いやる余裕がなくなる。

優しくなれない。

どうしてどうしてと責める気持ちしかなくなる。

素直になれない。

可愛げなくてごめんね。

でも

ただ一つ、その人が嘘をつくような人ではないこと、真っ直ぐな人であることを心から信じると伝えたい。

そんなことを考えてみた雨の車ミラー越し

優雅な生活、それは自由で孤独。

3年近く六本木に住んだことがあるのですが、住んでみたいと思いますか?

大抵の人は「六本木なんて住む場所じゃない」と言うし、もしくは「住みたくなんかない」と思うでしょう。

実際によく言われたし、私自身今になってみるとなんで六本木だったのだろう?って思います。

でも、その頃の私は「あるものを得るために」六本木に住み必死に働きました。贅沢するためではなかったです。

体がボロボロになるまで一生懸命働きました。それが私にとっての「自由」であり、「あるもの」とは私が一番望んでいた「自立」だったのです。

優雅な生活だったかもしれません。あくまで私にとってはです。「自由」に街を闊歩していたのもありますが、それが出来たのは、生きることに一生懸命だったからかもしれません。

「生活」するために、我を忘れ一生懸命に働くこと、それが自由で優雅だったのです。

時間を持て余し、ぬるま湯に浸かっている生活は私にとって決して自由でも優雅でもなく、悍ましいだけのような気がしてなりません。

そう思う自分に疲れることもあります。

なぜそこまで酷使するのか。今の幸せで十分じゃないか。と思われるかもしれませんね。

そうです。幸せって、自分の周りに常日頃あることだったり感じたりすることかと思います。

自分が働いたお金で食べること、ベッドで安心して眠ること、それができる私はなんて幸せなのだろう!そう思っていました。ただそんな単純なことを望んでいただけだったのです。

当たり前の日常が、私には輝かしく思えてなりませんでした。

でもそんな輝かしい「自由」な生活と引き換えに私は孤独になりました。喧騒の中、私は孤独と向き合い恐怖に怯えた日々を思い出します。

その頃味わった「自立した生活」は幸せではなかったのだろうか。今でも考えるのです。

私は、過去の栄光ではなく、あの日必死に働き手に入れた幸せを忘れられずにいます。いまだに「生きるとは」「自由とは」、考えるのです。

もう時間は刻々と過ぎていくばかり。

ただこれだけは言えるかな?余計なことを手放して生きていく。経験はいつか何かしら実になると。

私はまた、チャレンジャーとなり道を歩いていきたい。人生ギャンブル。笑

今、私は自由なのだろうか……。それも余計な考えですね。ひたすら前を見て感謝の心を忘れずに生きたいです。

あなたにとっての「幸せ」ってなんでしょうか。

こんな詩のようなものを書いてみた。

4年前のある時、こんな詩のようなものを書いていた。

『SNSでしか会えない僕らは

同じ時間を共有していても

お互い見ているものが違う

幸せと思えたはずの

一瞬通じ合えた僕らの心は

本当は何ひとつ

重なることなどないのに

共感し合えたあの幸せな時間も

本当のきみの姿を

本当のきみの心を

本当のきみの笑顔を

ただ見ていたかっただけ

それなのに 見えない真実が

現実に溝をつくっていく

わが心の想い悲しけれ……

思い出だけが記憶にとまり 投稿だけが流れていく

そんな世界に僕らは生きている』

思いつきで書いた。これを書いた時は楽しんで書いていた。

批評・感想いただけたら嬉しいです!

カミングアウトは必要なことか。

カミングアウトは必要なことか。

昔、私はSNSで過去をカミングアウトしたことがある。まあ大したことはなかった。驚く人は驚いただろうし、そうだったんだあとその程度だった人はいるだろうし。これと言った反響はなかった。

だがカミングアウトすることで、救われる人もいれば、迷惑を被る人もいるだろう。だから、そう易々と公然の場で言うわけにはいかない。

ある人から言われたことがある。「それ(原稿)を世の中に出したとして、迷惑がかかる人がいるんですよ!」

その言葉が胸を刺した。確かにその通りだからだ。

だけど、私はその時を一生懸命生きたし、「自分の力で生きる」と言うことがこんなにも幸せなんだと思ったことは、生きてきた中で心から思ったことはなかった。

悲惨なことは多かった。でもその悲惨さも超える幸せをも味わった。

つらい孤独も味わった。

そんな私の30代は一番「生きた感」の強い時として心に残っている。

でもそれ以上に信念を持って50代以降を私は生きたい。

そのために、カミングアウトをいずれしなければならない時が来るだろう。

時効になるのか、最後まで記憶として残るのか、誰かを傷つけてしまうのか、墓場まで持っていくのか、私にはわからない。

でも、胸を張って言えること。生きた証として、自信を持って伝えたい。

私は、いい加減に生きたわけでもないし、欲のために生きたわけでもない。いやわからない。あの頃は欲の塊だったかもしれない。

心から伝えれば、わかってもらえると信じている。

カミングアウトは決して恥ずべきことではない。必要なことのような気もする。

「カミングアウト」に関して言えば、いくらでも社会的なことは言えるのかもしれないが、ここでは個人的なことのみ書いた。

告白、フィクションかノンフィクションか。

『たとえば三浦和義の事件などは、考えれば考えるほど面白い。あの事件に対していろいろ批判はありますけれど、面白いということにかけては全く文句なく面白い。殺人、セックス、暴力、どんでん返し、謎解き、追いかけ……エンタテインメントの全ての要素が見事にそろったナマのドラマが、目の前でリアルタイムで進行していき、それをテレビカメラを通してウォッチできる。面白さにおいてこれを凌駕できるフィクションがあるか、ノンフィクションがあるかといったら、ありません(立花隆「僕はこんな本を読んできた」より引用)』

私が最近読んでいる立花隆さんの本からの引用である。

懐かしい。何が懐かしいって、1980年代に世間を騒がせたこの事件のことか。この人物、三浦和義のことか。この人物のこの事件はまさにこちらの立花さんが話したこと、そのものだ。そしてこの内容は1986年のものであるから、さらにこのノンフィクションは続く。続きが知りたい方はウィキペディアで「ロス疑惑」を検索してみてください。

この人物は最後の最後まで、不可解な行動で話題をさらい疑惑として幕を閉じている。

私が懐かしかったのは、この事件でもあるが、この人物三浦和義だった。

数回会った。

何年ごろあったかはあえて伏せることにする。私が出会った当時三浦は芸能プロダクションに所属していた。

友人が同じ事務所で、三浦を私に紹介してきた。三浦が生活の場にしていたのは赤坂にあるシティホテルだった。初めて会ったときは、部屋にルームサービスを呼び、お寿司を食べた記憶がある。

ホテルの中での三浦はまるで自分に気づいてほしいとばかりに、人と会うと堂々としていた。三浦に会うのはそのホテルで、数回会っては食事をした。

初めて会った時、三浦は私の住んでいる場所を聞いてきた。答えると「僕のいたところ(留置所)から近かったんだね」そういって笑った。その姿が少し異様だった。

食事での話題は、三浦がプロデュースだったか、監督だったか、をする映画の話だった。

2回ほど会った時だっただろうか。私は自分(三浦)のアシスタントとして一緒に現場に来てくれないかとお願いされた。

初め食事をしながらは考えた私は、三浦がただの芸能人でしかないように思ってならなかった。

だが、この男の正体を誰も知らない。

私は数日考え、何されるかわからない恐怖と予感が頭をよぎるようになった。

もちろん話は断った。

映画は、女優のH・Aが主役だったと思う。確か完成もした。朧げにテレビで見た記憶がある。内容は覚えていない。

友人に様子を聞かれた。三浦から友人には映画のアシスタントの話はしないでくれと言われていたので、その話には触れなかった。

「ねぇ、あの男、絶対人殺してるよね?」

「え、そうだね……」紹介してきたのは彼女だったから、私は深くは答えなかった。

そもそも、私のような一般庶民にとって、芸能界というところは謎が多いから、深入りしない方がいい世界なのかもしれない。そう思った。

ましてや、殺人を犯しているかもしれないわけのわからない人のことなんて。

女はいくらでもいるだろう。私は、関わることを一切やめた。

この話、フィクションなのか、ノンフィクションなのか、どちらなのか……。

ナルシシズムノススメ。

天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず

ナルシストは、人より誰よりも外見や知能やレベルが高いという。

そういえば、友達に「自分大好き!」と言っていた女の子がいた。でも本当に彼女はナルシストだったのでしょうか。

もしかしたら「マウントを取りたい」だけなのかもしれない。

私は自分に自信がないから、たまに自信が持てるものがあったりすると大切に思える。

学生の頃は自分の写真が好きではなかった。でも、その頃から撮られるために髪の毛を伸ばして、巻き髪にして、

そして最後には、最高の笑顔をつくる。

良く撮れた写真は、気に入った写真になる。私って、もしかして、かわいいじゃない??なんて思ってみる。

ほとんどの写真が「何この顔!?」と落胆する。現実を直視する。

当時はデジカメもスマホもないから、すぐに撮り直し効かない。

ナルシストも、加減はある。

私は、自分が大好き!とは言えないけれど、最近はこの肉のついた体型も、丸顔も、「なんだかいいかな」と最近少し思えるようになってきた。

水に写った自分に恋して水死しちゃうんじゃないんだから。

水面に自分をうつして、自分をよく考えてみたら、何かを受け入れられるかもしれない。

誰にでも、ナルシシズムはあるのかもしれないから。

小説のようで実際あった話。

【2007年のアメブロ六本木日記】

今はわからないけど、アメブロって自分のブログを冊子にできるんですよね。ある仕事をしていて、で、私は2007年mixiをやめてアメブロ始めて、その頃の冊子が出てきたので、読んだら、今のブログとは全く違う。(当たり前か)ということで、書いてみた。

【よくある六本木の小さな物語】

それは1ヶ月ほど前の夜の出来事かな。コンビニで朝食の買い物をしていたんですね。バナナにヨーグルト、牛乳…そしてレジへ。隣にいた外国人の男性。いきなり私が買っていたものにツッコミを入れてきたんですよ。その日本語が私の笑いのツボにハマってね。どこでそんな会話覚えたの?ってくらい話が面白くって、私もつい乗ってしまったんです。ま、その外国人はそうやって多くの女性に話しかけているんでしょうけどね。そういった会話も、あの付近にいる日本人の若いお兄さんに教えてもらったんでしょう。私が手にしていた携帯に自分の番号を入れてきたんですよ。そして勝手に自分の携帯に電話して。私の番号がわかるでしょ。彼は「電話するけど、出なかったらまたどこかで会っても、もう話しかけたりしないから」そう言って別れたんです。私は電話に出ませんでした。つい先日、知り合いの男性とあるお店に行きました。彼はその飲食店で働いていました。あの時の彼ではありませんでした。私が一人ではなかったというのもあったかもしれないけど、彼があの時の彼とは全くの別人だったのが、私の心を複雑にさせました。私はそんな気分のまま店を出ました。きっとこの町ではよくある話……

【ワインレッドのスカート】

ヒルズから交差点に向かい途中で、後ろから声をかけられたんですね。ナンパ(笑)でもスカウト(笑)でもなんでもありません。マウンテンバイクに乗った爽やかなお兄さん。「そのスカート、どこのですか?」いきなりだったので、ん?あれ、これどこのだったっけ??と返答に困っていたら、「素材はなんですか?」真夏以外は履けるものだから…「ウールとレーヨン?だったかな…」と私。「いい色のスカートですね。あまりみない色だったんで思わず気になっちゃったんですよ。すみません」と爽やかに走り去っていったお兄さん。?服飾関係の人なのかしらん??私が素敵だなあと思う女性を見かける場所は、ヒルズの駐車場からエレベーターに上がる時かな。先日もマセラティから降りてきた素敵な中年ご夫婦。止めた場所が障害者専用……だった。惜しい。どうせならとことん美しくあって欲しかった。勝手な願望。

女の生きる道。

私が学生の頃、秘書科に在籍していて卒論みたいなものに「女性の生き方」だったかな、確かそれについて書いた記憶があった。

私は当時、森瑤子さんのエッセイや小説が好きで、それを元に女の生き方を書いたと思う。そんなかっこいい大人の人生を憧れていた。

20代で結婚、私には子供がなく、それがつらかった時期もあった。子供が欲しいと真剣に考えた事はあるが、その頃から私は精神的に不安定になっていった。

自分のことで精一杯になっていき、子供のことなど考えられなくなってしまっていた。それが20代半ばから後半くらいの話だ。

それからというもの、私はだんだんと外側に救いを求めるようになっていった。30代に入ってからだった。

このような話をするといろいろ誤解されるのを覚悟だが、私は常に誰かを好き、もしくは大切な人として心に存在させていった。

ひとりの人しか愛せない、とかそのようなことはなく、その人の良さ、を大切にしていた。私はいつもそんなことを考える、女という前にひとりの人間になっていた。

私にとって30代とは、苦しかったけれども、私の人生のなかでなくてはならない重要な年月になった。

まず生きるためにお金を作ることから始め、過労のために生きるか死ぬかの瀬戸際まで行ったことがあったり、何週間も病院で点滴を打ち寝たきりになる辛さはもう懲り懲りだった。

だから私は「コロナが恐怖」というのはある。あの苦しみは味わったことのある人にしかわからない。

でも何より怖かったのは「孤独」だった。孤独であることは本当につらかった。

カーネーション。そういえば母の日だ

重い話になってきたので、30代の大体の話はこの辺にしておくが、私にとっては、決して後悔していないのがこの30代だったかもしれない。

でも、またピアノの話になるが、この頃にピアノをまた再開しておけばよかった、と今になって思うことは多々ある。

そんな30代が過ぎ、40代前半は家族と楽しく過ごす時間が過ぎていった。楽しかった。父親との確執があった私は、父が認知症になり、私を頼りにするようになった父を見て、父への思いは完全に変わっていった。

40代はあっという間のような気がする。私の病気を治すため、日々通った病院。自分を取り戻して行くかのようだった。

今現在、私はやりたいことがいっぱいでき、ある意味充実した日々を送っている。人生はまだまだこれからだ。40代の今、できることをしてこれからの人生の準備をしていきたい。

でも、結局私は森瑤子さんのような、格好いい生き方はできなかったなあとづくづく思うのだった。