雨の銀座。

画像は昨年のちょうど今頃の画像。

そして、今日みどりの日も銀座は雨。

去年、初めて緊急事態宣言が出たときは、ほとんど人もクルマも見なかった。私が銀座にいたのは、かかりつけの病院に行くためだった。

あのときクルマから見た光景は「こんなにコロナは恐ろしいものなのか」と、なんだかいつもの銀座なのに違う世界に来たような緊張感が少しあったと思う。

けど、そんな心配もだんだんと消えいき、3回目の緊急事態宣言が出た翌日の銀座は、それなりに人がいた。

今日は自宅にいるので、今の銀座がどうなっているのかはわからないが、家の外もいつもの休日と変わらず人の声もするし、バスもクルマもそれなりに通っている。あの頃の緊張感はほとんどないように見える。

家にいるときはピアノの練習をしている、と言えれば格好いいけど。

おぼつかない手で練習するバッハ メヌエット

練習時間がなかなか取れない!というのは言い訳だと思う。少しの時間でもいいから毎日できるといいですよね。

練習しているといつも思う。あれだけ弾けていたピアノも、大人になりブランクがあれば、まったく弾けなくなるのかと。こうなったら、バッハのメヌエットも、超絶した技巧で弾けるようにする!いや、しようかなあ……。

電子ピアノで、音声を出そうと思えばできるのですが、今回はあまりにもお粗末な演奏のために、音は繋げずに画像だけ。すみません……

親が導く子供の居場所。

好きなことは何?好きなものは?

3歳の頃(記憶が曖昧)だろうか、兄が通っていたピアノ教室に一緒について行った。それから私はピアノを習い始めた。母親は自分が弾けないから私に弾かせたかった、とよく言っていた。その頃の私も決して苦痛ではなかったはずだ。ただ、正直言えば、環境はあまり良くなかった。というのも、私は従姉妹とよく比べられていたからだ。

ピアノを習わせたいと思っている親御さんがいたら、一応ピアノを習っていた身として思うのはやっぱり「環境は大事」ということ。

それから、やっぱりその子にとって、「ピアノの存在がどのくらいの比重を占めるのか」。というと、なんだかわかりづらい。つらくても続けられるのか。どんなことでも「痛み」はある。

私の話をさせていただくと、私は音楽大学を出ているわけでもなければ、どれだけ一生懸命やっていたわけでもない。17歳くらいの頃、一般の大学を受けるためにピアノを辞めた。ピアノの先生は私を引き留めた。

今思うと、残念だったのは、母親はあくまで「私の意思とは別に」趣味として私にピアノを習わせたかっただけであって、プロを目指そうとさせていたわけではなかった。熱心ではなかった。だからやめることに親は引き留めたりしなかった。と言っても、別に親を恨んでいるわけではない。この頃の私も「趣味で習っていたピアノ」だったからか、練習もそこそこ、通うことすら苦痛のときもあったからだ。

でも、大人になり、あの時ピアノを続けていたらどうなっていたのか、最近考える。

というのも、今またピアノを練習し出したからだ。

一度は弾いてみたいスタインウェイ&サンズ

一つだけ思うのは、「どうせやるのなら楽しくやりたい。つらくても好きなら続けられるはずだし、自分の居場所がそこであると思ってピアノを弾くことができるのなら、続けても良かったんじゃないか」って。

「努力は報われる」と思って苦痛なピアノを弾くのははっきり言えば間違っているのかもしれない。

努力することが悪いわけではない。大切なのは「自分の居場所」を作ることではないか。

居場所が違うのに、いつまでもその場所でコツコツ努力したところで、思う結果は出てこないだろう。これはあくまで受け売りだが、その通りだと思うので、ここに書くことにした。「モーツアルトと同じように練習したから、モーツアルトのようになれる」わけではない。

私は、大人になってまたピアノを習いたくなって、練習している。大人になってから習い出しても、もう子供の頃に弾いた曲は弾けなくなっていた。実際ピアノを触ってみて、愕然としたことだった。その時はじめて、17歳で辞めてしまったことに後悔した。

その子が何をやりたいと思うのか、は大切だと思うけれども、「それ」をさせるには、周囲も努力する覚悟がないと、子供のやる気を見つけることはできないと思う。

周囲の人がどれだけその子のことを見ているか、わかっているのか「子供を導いてあげられるか」かもしれない。

だがそれは「親の使命」とは限らない。使命や義務だと思ったら、おそらく親も子も苦痛で共倒れだろう。一昔前にステージママという言葉が流行ったような気がする。子供にとって、そのような母親がいいのかどうかは、知り合いにいないのでわからないが、先に言った「周囲の環境は大事」ということだ。

周囲の環境とはどんな環境だろうか。正直なところ、「ピアノを好きになってもらえる環境」とはどんな環境かわからない。ピアノを本格的にやっている親だったり、家族がいるならまた話が別かもしれない。ピアノに限らず、いわゆる「音楽一家」だ。でも、一生懸命な親に限らず周囲の姿を見ていれば、おそらく子供も「何か」を感じるんじゃないだろうか。

ただ、もう一つ大切なのは「もしかしたら、この子には違う道があるのでは」と感じたら、無理だと思ったら、道をすぐ変えること。これも受け売りだかが、とても大事なことだと思う。親の努力が足りないのではない。本人のためにも、違う道を選ぶ柔軟性があってもいいのではないだろうか。

He is a Superstar.

スターになる人の条件ってなんでしょうか。

スターになれる人ってどんな人でしょうか。

最近ある人のことをいろいろ調べて、この人は本当のスーパースターだなと思う人がいるのですが、まず、スーパースターとはどんな人なのでしょう。

・天性に与えられたものを大事にする(天性は必ずしも、「努力」がいらないとは限らない)

・周囲が天性に気づき見守ってくれる環境にあること(家族だけとは限らない)

・本人はその環境で目一杯に努力できる

・日の光を浴びるまで暗がりを恐れない

・華やかな場所に出ても(脚光を浴びても)決して有頂天になることはしない(つまり、調子に乗らない)

・自分の個性を大切にできる

・どんな時も目の前にある「すべきこと」だけに集中できる、努力できる

・周囲への気配りを大切にする

・ここぞの時に最大限の力が出せる

・真摯であれ

以上、私が考えた10の条件と思うものを書いてみました。

これは華やかな世界にいる人ほど、当てはまることだと思います。

世界をまたにかけ、芸術の分野で活躍するひとりの人のことを考えて書いてみたのですが、意外と各界で活躍する人に当てはまることかもしれません。

でも私が思ったのは、これは「人間」であるすべての人が行うべきことではないでしょうか。

最後の「真摯であれ」は私の個人的な願いでもありました。「真摯であること」ですね。

あと、これも大切なこと。

私は「彼」を想像しながら書いたので、彼になりましたが「彼女」ももちろんあってもいいのです。

特別な人ではなく、少なくともこの10は当てはまっている人、もしくはその他の条件でも構いません。

そんなSuperstarが現れてくれることを楽しみにしたいですね。

そして私はまたハマるんだろうなあ、と思うのです。

Rhapsody in Blue

Rhapsody in Blue

私はこの名前も曲も好きである。「Bleu」が好きだから。現に今も聴きながらこの記事を書いている。

私がこの曲に出会ったのは小学生の頃、祖父が買ってきた「リチャード・クレーダーマン」のカセットテープで、彼の名作「渚のアデリーヌ」はもう有名な曲だが、私は何故か「ラプソデーインブルー」に惹かれた。

最近では、「のだめカンタービレ」で使われるようになって、ある意味代名詞になっているようだが、私はその方があまり聞いたこと、観たことがなくて、機会があったら観てみようと思う。

Rhapsody in blueは多くのピアニストが弾いているが、YouTubeで見た限り、いいと思うアーティストは「ユジャ・ワン」は彼女にお似合いの曲のような気がする。そしてもう一人、やはりこの方「レオナルド・バーンスタイン」自身が弾くRhapsody in Blue。さすが安定の演奏である。

この曲、弾く人によって所々違う。このblogではもうお馴染みのLang Langですが、この人の演奏は所々彼のテクニックが織り込まれている。これもこれでいいと思う。

演奏者ならではの音楽を比較することは楽しい。

私はこのRhapsody in BleuでCD3枚は持っていて、ラフマニノフのCDは5枚持っている。

美しい曲は、誰が弾いても美しい。必ず、泣かせてくれる山場がある。

ラプソディは「狂詩曲」。美しいだけが泣けるわけじゃない、のが私の持論。

ちなみにこうやってblogを書いていると、おそらく見ず知らずの方が、読んでくれているのは確かである。クラシック好きの方にこのクラシックに関して、興味を持ったり、好きでこのblogを読んでくれる人がいたら、最高だと思う。

また好きな曲があったら書きます。

浜崎あゆみに見るパーソナルブランディング術。

一昔前、私が中学・高校生の頃でしょうか。その頃、ブランディング(当時その言葉があったのかわかりませんが)を実践していたのは「松田聖子」さんでないかと思います。

ですが、この「浜崎あゆみ」さんは私と同じ年代、40代で日本のエンターテイメント界では、影響力のある女性だと思います。実は昔から彼女に興味がありました。私は民放テレビは数年見ていないので、彼女がテレビで歌っている姿はここ何年も観ていません。コンサートでの姿をネットで観たくらいでしょうか。でも曲はある程度知っています。

ブランディングは影響力に尽きる。ブランディングは常に感情面と切り離せない。可愛くありたい。綺麗でありたい。格好よくありたい。そして唯一無二の存在でありたい。それは彼女の歌、歌詞、スタイルにすべて現れている。

さて、本題に入ります。彼女は歌、ファッション、「浜崎あゆみ」本人すべてにおいて、ターゲットを絞りブランディングで成功させた日本のショービジネスの世界において有名な一人ではないでしょうか。

最近いつだか、ノンフィクション作家小松成美さん(数多くの著名人のルポタージュを書いています)が書いた本が売れ、そのドラマが放送されたようですが、それも彼女のブランディング力が功を奏しています。逆にいえば、顧客は彼女に対する価値に理解を深めようとするから、彼女にブランディング力があるのですね。

それにしても、この本とドラマに関しては、「浜崎あゆみ」のためといいますか、それはavexという企業のためでもあるようです(ここにもビジネスの裏事情があるようですが)。

そして、最近セレブ「浜崎あゆみ」が驚かせたのは、「舞台で歌い踊る彼女が、40にして子供を出産、さらに続けて第二子を妊娠」したこと。彼女は事務所のavexを支え、アメリカには豪邸と日本の芸能界にしては、セレブ「浜崎あゆみ」なのです。そんなセレブ「浜崎あゆみ」が手に入れていなかったもの、それは「子供」だったのでしょう。40にして二人、しかも年子の子供を作るというのは、一般の家庭では、まず「年齢的」なこと、そして「経済的」なことなどと容易に考えられることではありません。

彼女を多くの人が支えているのでしょう。

それもこれも彼女のブランディングによって、他を寄せ付けない、唯一無二の存在でありたい自分、ブランディングと言いましたが、彼女の「願い」でもあるのではと思います。

では、続いてブランディングとして大切なポジショニングについて考えます。ポジショニングはマーケットの人の心に自分の居場所を確保することです。彼女のポジションは「歌詞」ではないでしょうか。そこには、一貫性があり「自分の思いを書いた歌詞」により、多くの彼女のファンの心に存在しているといえます。

そして、彼女の創造性を創り出している「コンサート」での、ユニークな演出、華やかな衣装やバックダンサーとの演出が彼女のポジショニングと言えるのかもしれません。これはより強力なポジションに向けた戦略です。

いまだ誰も挑戦したことのない、彼女の挑戦が成功へと導いたと思います。

ここで付け加えたいのは彼女が「感情面でアピール」をしているのは、先ほども話をした「歌詞」ですが、もう一つ、SNSです。ビジュアルを大事にしている「浜崎あゆみ」ならではのInstagramは更新する度にちょっとした話題になっています。

浜崎あゆみのセンスは嫌いではないので、もうちょっとInstagramもアート的なものもあってもいいかなと思います。私ごとでした。

顧客の反応で、「浜崎あゆみ」の明確なポジショニングは価値の明確化となり理解を深めてくれるのがブランディングの一つになります。

やはり、顧客あっての彼女であることに違いありません。

わかっていただけましたでしょうか。ブランディングです。私もまだわかっていません。笑 

なので、彼女を題材に少し簡単に考えてみました。この一人の女性を書いていると、彼女のデビューから現在までのことを語ることにもなると思うので、ここで書くと、本になるまで書けるかわかりませんが、何ページも書いてしまいそうなので、まずはここまで。(太文字にしたところは、ブランティングのキーにある言葉です)

ありがとうございました。

小休止、あなたを癒してあげたい。

バッハ 前奏曲ハ長調 BWV 846 LANG LANG

今、あなたが音楽が聴ける環境にあるのなら、この美しい曲を聴きながら、癒されてくれたら嬉しい。

ピアノの「旧約聖書」とも言われるほど鍵盤楽器奏者にとって重要なバッハによる作品集の第1曲です。

流れるような曲を聴きながら、私の駄文をお読みください。

私が物心ついた頃から、いつもそばにはピアノの存在がありました。

明治生まれの祖母がまだ生きていた頃、家でのピアノの指導はいつも祖母がしてくれていました。

祖母は山口県の有名な女学校で、外国人の先生にピアノを習っていました。そのためか、ピアノは90歳近くまで楽譜なしで弾いていました。

私にはそれがなんの曲なのかわからなかったし、祖母に聞いたとしても、おそらく祖母も曲名も何かもわからないままに、弾いていたかもしれません。

そんな祖母が亡くなり、私も実家を出て、誰も触ることのなくなったピアノは、両親が家を引き払うこととなったと同時に、ピアノも売りに出されました。

私はとてもショックだったのを覚えています。でも祖母がいなくなって、ピアノを弾けるのが唯一私でしたので、家に居なくなった私には誰を責めることはできませんでした。

現在(いま)大事なピアノは、美しい音色とともにそばにいます。

多くの美しい曲を新たに教えてくれたあなたに感謝して。

どうせなら100%にするための技法。

私はいちおう文章を書いているが、タイトルに「文章」の文字はあえて入れませんでした。これから話すことは、一つのことに限らず、多くのことに当てはまると思うから。

それは何か。

文章についてや、他ジャンルの人たちからパフォーマンスを100%の出来にしている技法を考えてみた。

100%のパフォーマンスを出すために、共通していることがある。もしくは共通させることができる言葉がある。それは「美しさ」だ。見た目だけの「美しさ」ではない。じゃあ、美人や美男子。といった話ではないのですが。

その「美しさ」とは最高峰の人が最高に厳しい複雑な状況にいるときに必要とする直感であり、そこに「美しさ」を見出せるかどうかである(この内容に関しては、また後日書きます。わたしもテーマにしたいので)。

まず、フィギアスケートの選手。羽生結弦選手である。

たった一人でリンクの中で滑る姿は、美しくもあるが、アスリートそのものの姿がある。

それと、リンクでの究極な精神状態と思考の中、それこそ考える「美しさ」を備えて滑る姿は楽しんで滑っている。「楽しんで滑って」の意味は、「競技」ではなく「自分を創り上げること」である。

つまり、誰かに負けないために競うのではなく、自分の向上心のためにたたかっている、ということだ。

世界選手権2021の時の羽生結弦選手

そう、わたしは羽生結弦選手を見るたび思っていたのは、「滑ること」すべてを自分のものにし、「喜び」でいるということ。それは見られることの快感だと思う。創造することを楽しむことができる、ワクワクすることができるそのような人ではないだろうか。それは才能もあるのかもしれないし、自分に限界を作るわけではなく、自由に自分を高められる人。アスリートにして、アーティスト。

どんなに練習しても舞台では100%の出来にするのが難しそうなフィギアスケート。先日、世界選手権2021が行われていたが、選手たちは優雅に滑っているけれどもアスリートとしてかなり鍛えて大会に臨んでいる。なのに、100%の結果が出るかといったら、わからない。たとえ100%の練習を積んできても、力を出していても、思うような結果が出ないなど本人たちにしてみたら結局結果が全てなので、相当な精神的にも耐えられるよう鍛えているのだろう。

ちなみに、(わたしの好きなピアニスト)Lang Lang(いやランラン に限らず)だったら、今日の演奏は最高だった、とか、いつも演奏は完璧な出来、つまり100%の出来にしなければ、それは世界的ピアニストと称されないのかもしれない。自分のパフォーマンスのために常にウォームアップさせているのだろう。いや、させているのをSNSで見た。

またもや世界的中国人ピアニストラン・ラン

「自分はそれだけの練習をしてきたのだから」と物事に取り組むことは、最高峰にいる人には必須である、と言い切れる。

わたしは自分の書いてきた過去のブログを読めば、ただの記録でしかなく、誰が読むわけでもないと思って書いていたので、「ただのメモ書き」のようなものだった。書いたものを読んでいると、今まで書いてきた中で、お気に入りの記事はまだない。強いていえば、LangLangのことを書いた投稿ぐらいだろうか?すみません個人的な好みで。クラシック好きな方ぜひご覧ください。それにしても、あの投稿の内容すら中途半端に終わらせてしまっている。

話はさておき、

まずは、文章って「100%の出来!自分の文章って完璧。自分の文章いいよね。」って思う人はどのくらいいるのだろうか。

本のジャンルにもよるのかもしれないが、やはりいい文章といえば小説。わたしは昔「美しい比喩表現」を考えたりしたことがある。

わたしは「文章とは”芸術”だ」と思っていて、「比喩表現」といえばもう、高度な芸術の技能とさえ思う。この「比喩表現」を巧みに使う、「凄い文章界の芸術作家(わたしがそう称している)」といえば、たくさんの作品や人名が出てくる。わたしに文章の比喩的表現を指導してくださった方がいた。その方は、吉本ばななを絶賛していた。それから、やはりネットでもよく目にするのは村上春樹で、比喩表現を巧みに扱う作家である。

これはもう、センスの趣味趣向(書き手にも読み手にも)もあるから、もしかしたら、村上春樹もセンスをアップデートさせたら、その時は今度こそノーベル文学賞ものかもしれないと、最後は勝手に考えてみた。

ところで、日本は国をあげて、国民に芸術を身近なものとして、親しんでもらうために、コンサートやイベントをもっと大々的にやってほしいと思う。もちろん、心からのコロナの収束を願っての話だ。

わたしも、もっと思考を深めて おもしろいこと考え、書きたいと思う。それには学習はしなければいけない。

今日は「休日」ですが、いまだに私のブログのジャンルが見えてこないですね……。何かご意見等ございましたらコメントください。

今回もお付き合いくださりありがとうございました。

LangLangの幸せにするパフォーマンスの考察。

前回の「オタク化しそうな人。」でのピアニストLangLangのゲーマー説、これより深いものに気づきました。

下にさ、LangLangのラフマニノフの動画を貼り付けました。これを観てみていただけると、彼がどんな人かちょっとわかります。笑

ちなみに、LangLangを知っている方、もしくは、全くクラシックに興味ない方、は観なくても大丈夫です。もちろん、読んでいただけるだけでもありがたいです。

さて、またまた考えたのですが、LangLangは以下の傾向が強いことを考えたのです。

彼の演奏する姿を観て「たくさんのドーパミン」が出ていることに気づきました。

とはいえ、わたしは心のことなら少しわかるのですが、脳の方は詳しい知識はありません。あくまでも私が感じ考えたことです。

ピアノを弾くことで、彼は脳から出る神経伝達物質のドーパミンがたくさん出ているのではないでしょうか。彼のパフォーマンスを観ることで、興奮し、気持ちを幸せにさせ、ポジティブにさせ、意欲的になる一連の動きがあるのかもしれません。これはドーパミンの特徴だそうです。

ただし、「この彼に対して好意的でない感情」がある場合、クラシックに興味ないなど、そのような場合この動画は合わないと思います。「ドーパミン」は共有できるものなのでしょうか。それは分かりませんが。

ということは、LangLang自身演奏している時は幸せに尽きるのでしょう。それは、この動画に限らず他の曲でもわたしの考える「ドーパミン」傾向が見られました。例えば、彼が特別なものとしている「ベートーヴェン」の曲でもそのような姿が見られました。彼がYouTubeでとても好きだと言っていた、ピアノソナタ23番「熱情」やピアノ協奏曲第5番「皇帝」の彼の表情に笑顔が見られまます。「熱情」はわたしも大好きな曲なのですが、笑顔とあの曲のイメージとピアノの弾き方に違和感感じました。でも、彼にはピアノを弾くことで得るものは最高の興奮と快感なのではないかとも思いました。

わたしが知らないだけで、このようなアーティストは多いのかもしれません。

つまり、オーバーアクションも彼がピアニストとしてのモチベーションを保つためのものなのかもしれません。とはいえ、クラシックは芸術であって、感じ方は人それぞれなのです。LangLangが受けつけられない人がいて当然だと思います。

わたしも何故ここまでピアニストに関し一生懸命考えたのか分かりませんが。笑 わたし自身は、彼のオーバーアクションに惹かれるものがあったのかもしれません。

と、最後にこれを書いているわたしも好きなクラシック、特にピアノに関して書いているいまこの時も幸せを感じます。ですが、ピアノと違い、文章を書くことは最終的にわたしの苦手とする推敲があるので、快感で終わらせることができないのが、芸術と違うところなのでしょうか……。

いえ、実は文章もそうですが、会社の経営に、芸術の美意識が必要と言っている本もあります。

今回のLangLangに関してわたしが考えたことに、何かございましたらぜひ教えていただけると幸いです。

それはいずれまた。長くなり失礼しました!

オタク化しそうな人。

「好きだからって、買いすぎじゃね?」って感じですよね。笑 一気に全部LangLang買いました。クラシックは好きでしょうか。

「好き」から入りましたが、いまはハマっているというより研究材料のようなところがあります。彼の演奏、パフォーマンスをオーバーアクションが駄目と言っている人、何かで見ました。そこに対して彼への好みも分かれるところもあるみたいです。

わたしですか?LangLang好きですよ。でも彼のことはつい最近まで知らなくて、映画「のだめカンタービレ」のピアノの吹き替えをしていたことも知らなかったから、世界的ピアニストであったことも知りませんでした。わたしは少しクラシックから遠ざかっていたのもあります。

最近こうしてCDを買いあさり、YouTubeを見まくることで、わたしは感じたことがあります。

それは彼にとって、ピアノは「ゲーム🎮🕹でもあるのではないかということ。

いますよね、こういう子供というかゲーマー?ゲーム操作が妙に速くて、ミスしなくてどんな難関もクリアしていて、常に誰よりも点数稼ぐ人……。そう、ピアノはゲーム。

わたしはここで悪いことを書くつもりはなく、つまりLangLangの演奏テクニックはすばらしく完璧。表現については……わたしはあまり語れませんが、完璧なんじゃないでしょうか。それはやはり「ゲーマー」として。まだ、研究不足です。

そして、先ほどの彼のアクションについてですが、これが世界のLangLangとするなら、わたしはとても良いと思います。ピアニストは上品で美しいというイメージ(わたしの)は覆されて、「彼が夢中になっているゲームの画面を見ている」よりも、「彼のゲームをしている指先を見ていたい」そんな感覚です。

わたしのお伝えしたいこと、わかりますでしょうか。

現在LangLangは38歳だそうです。まだ若いです。伸びしろはまだもちろんあるのではないでしょうか。でないと、ゲームも飽きてしまいますよね。

マニアックな話もここまでにしないと、わたしのブログも文章も飽きられますね。お付き合いくださりありがとうございます。また、研究します。飽きずに見てくださいね。

落合陽一という人から考えること。

5年ほど前、私は「文章」というものに、強くこだわったことがあった。文章を書くことを始めて、1年くらい経ったころ。ここから、私の「アート」は始まったのかもしれない。

「バズる文章」が書きたかったわけではなく(当時バズるって言葉あったのかな)。

「美しい文章」が書きたくて仕方なかった。

3年ほど前だったろうか(“いつ”という時間にアバウトである)、私はネットでNewsPicksというビジネス系のソーシャル経済メディア(と書いてあった)をたまに見ていた。

そこで、落合陽一さんの「○○をアップデートせよ」という番組が面白かった。

いろんな著名人が出てくるがAV女優で、いま作家としても活躍している紗倉まなさんも出ていたのを見た。

その頃正直言えば、おもしろい人だからと本を買ってみたところで、結局最後まで読み切ることは出来なかった。興味の対象までいかなかった。

でも、また個展か何かで、彼が撮影した写真を何点か見ることがあった。そんなこんなで彼の名前を目にすることが何回かあった。だんだん「落合陽一」という人に興味は湧いてきた。

とにかくWikipediaを見ると自由で創造の幅が広い!いま、時代はこういう人の時代なんだと思った。

私もまだ落合陽一さんのことはよく知らないけど、これから注目していきたい。そして、感性に共感できたら楽しいだろうな。

最近ハマっているのは、

落合陽一さん

ラン・ラン(とても好き。笑)

だけど、いまの若者は先述したが本当に自由人だ。

私も物書いたり、芸術に関したことがしたいなら、もっと勉強して、自分の世界をつくりたいなあ。

こんなこと書いて、また、意識高い系になるのかな。