死ぬことよりも、無知であることが怖い。

あるファッションデザイナーが、雑誌で「私は死ぬことよりも、勉強不足であることが怖いです」と言っていた。

なんだかわかる気がした。

「勉強不足であること」「無知であること」それでいいのかと思う。

私は何も知らないから。

私は、数年前、中国のノーベル平和賞作家「劉 暁波」がなくなったとき、彼に少し興味を持った。こういう人物のことを多く知ることができたら、と思ったのだ。

ウィキペディアに出ていることだが、1988年、「美学と人間的自由」で文学博士号取得、とある。この「美学と人間的自由」が一体どのような内容のものなのか知らないけど、とても興味がある。

2009年12月23日に発表された「私に敵はいない」は有名かもしれない。

そんなことすら私は曖昧で、あまりにも無知だ。というか、興味のある人にしかわからないことなのかもしれないけど。

もしかしたら今、「劉 暁波」について、知るときなのかもしれない。

少し勉強しなければと思う。

付箋紙だらけの女。

貼りすぎだね。笑

先日、活字嫌いなどと書いてしまった。大抵私はブログを書くとき、なるべくタイトルはインパクトのあるタイトルを考える。

ネタバレ。

だから先日のタイトル「活字嫌い」も一つのインパクトとして考えたつもりだった。

企画書のタイトルはなかなか考えられないのに。

だが、やっぱり本は初めから終わりまできっちり読むことはしない。

いいのか悪いのかわからないが、とにかく最初に読むときは、また後から読めるように付箋紙を貼っていく。だが、ある本に書かれていたのは、「最初にいきなり付箋やマーカーは使わない方がいい」と言うことだった。

確かに、後から付箋紙の部分を見直すと、同じような部分に貼っている。だから貼らなくてもいいページ、同じような内容のページにたくさん貼っている。無駄なことをしている。

せっかく貼ったのにその部分を見直すことはしなかったりする。

本当に必要なページや文章がわからなくなってしまうのだ。

だから、最初に貼った付箋紙はどんどん剥がしていく。

効率の悪い作業だが、それも悪い作業だとは思っていない。

本は何度も読み直す。記憶力の悪い私にはこの作業しかない。だから私にとって付箋紙は大切な道具。

生「ラフマニノフ」を聴く日。

7月7日(水曜日)は生「ラフマニノフ」がサントリーホールで聴ける日。

楽しみで、ドキドキしている。生でラフマニノフを聴くのは初めてだからだ。

ラフマニノフは本当に好きで、CDは少ないかもしれないけど、5枚持っている。2枚は、あまり知らないピアニストのCDであとは反田恭平さんとか、妖艶のピアニスト、カティア・ブニアティシビリ、そしてラン・ラン。

ラン・ランのラフマニノフのピアノ協奏曲2番は、もうYouTubeで何百回と観ている。

CDもいいのだが、弾いているラン・ランはなぜか惹かれるものがある。

今回はランランではないが、とにかく初の生「ラフマニノフ」が楽しみ。

今日もラン・ラン観ながら寝ます。

活字嫌い。

先日、ブログで「本に囲まれた部屋がいい」と書いた。しかも私は、文章を書いている。にもかかわらず、活字嫌い。

矛盾している。

でも事実である。

なんのためにものを書いているのだろうか。

活字嫌い?本当に?

ライターは表現者で、多くのことに関心を持たなければならない、と思う。

私はそうありたいし、映画、演劇、音楽、絵画と言うものを多く知りたい。

じゃあ私にとって「本」とは何か。これは前にも書いたことがあるかもしれないが、「辞書」かもしれない。初めから最後までまず読まない。必要なところから読んで、また必要になったら引っ張り出して読む。逆から読むこともある。

これが私の読書の仕方かもしれない。

「活字」に追われるのは嫌だ。「活字」を読む感覚と言うより、どちらかというと「知識」を「頭や心」で見て感じ、それが楽しくなる感覚がいい。

なんだか言っていることがわかりづらくて申し訳ないです。

本をパラパラめくって、目に止まった本の1行の文章で、何かがひらめく。

そのようなことが多い。

本は楽しい「辞書」でもありインスピレーションを与えてくれる楽しい「図鑑」でもある。

自分で言うのもなんだが、この投稿は好きである。

世に出ることのないフィクション。

この話、実話ではありません。なんとなく書いてみました。

でも、多少実話を織り交ぜているかもしれません。笑

写真の花はダリアの「恋金魚」。

高校生の時の私は、気の多い性格だったせいか、二人同時に男性を好きになったことがある。その二人は兄弟だった。

「兄」はノリの軽い男性で、「弟」は真面目だった。私はなぜ私が正反対の、しかも兄弟を好きになったのかはわからない。どちらもどこかに魅力を感じたのだろう。

奥手だった私は、どちらにも話しかけることができず、でも何もしないでいることもできなかったので、その兄弟に手紙を書いた記憶がある。内容はあまり覚えていない。

でも、奥手なくせに意外と大胆な私は「好きです」の一言くらい書いたような気がする。

「弟」は反応がなかった。「兄」の方は家に誘ってきた。この「兄」は軽いと言っても、話が面白いだけで、「悪いノリ」があったわけではないので、私は心配することもなく、家に行った。

部屋には恋愛漫画の原本がたくさん飾られていた。

「はっ」私は反応した。その恋愛漫画は私もみたことあるが、その少女の名前を初めて知った。

私と同じ名前だった。

彼は私に「〇〇ちゃん」「〇〇ちゃん」よくそう話しかけてくれていたのは、もしかして……

私はありもしない期待で、ドキドキした。

彼は優しい言葉で、黙る私にたくさん話をしてくれた。

彼はそのあと駅まで見送ってくれた。

その後彼は私の友達と付き合った。

私の予想は外れだったわけだ。

「弟」は相変わらず反応もなく、私の気持ちも薄くなっていった。

「兄」は高校3年生。私が2年生の時、彼は大学へ進学せずロサンゼルスに遊学すると聞いたのだ。

でもさほどなぜだかショックも受けず、成田空港へ見送ることしか考えなかった。

「兄」の同級生の友達が車で友達を乗せて行くと聞きつけたので、私も同乗させてもらうことにした。

当日、「兄」の友達は180㎞というとんでもないスピードで高速を飛ばして空港へ向かった。生きててよかった。

成田空港へ着いた私は、彼に一応挨拶をいうと、彼はロサンゼルスの住所の書いてある紙を私に渡した。そして握手を求めてきた。

私は一人、ぼーっとしていると、彼は私のそばに寄ってきて突然、あみんの「待つわ」を口ずさんできた。

「私待〜つ〜わ〜」

私はそんなに悲しくなかった。泣くことはなかった。

果たして私は待つのだろうか。

彼のあの歌の意味はなんだったのだろうか。待っていて欲しいの?

な訳ないよね。私はそう思うと、なぜか高校のカバンを持って手を振りながらゲートへ入って行く彼を、冷めた顔をして見送っていた。

そのあと、私は彼に手紙を送ることもなく、住所の書かれた紙もどこかへいってしまった。

これが私の初恋。

本に囲まれた部屋っていいよね。

本に囲まれた部屋っていいよね。私は思うのだ。

先日亡くなられた、作家の立花隆さんが写った写真の後ろには、たくさんの書籍が本棚に並べられていた。知の巨人なのだから、当然と言ったら当然なのだろう。

私は「アレ」に憧れる。壁一面の本棚に埋め尽くされた書籍。

などと言って、決して読書家ではない。本が猛烈に好きなわけでもない。ただ言えるのは、本は私にとって「読み物」というか、カッコよく言うが「知識を蓄える辞書」なのかもしれない。だから立花隆さんの「知の巨人」には鋭く反応したのかもしれない。

もちろん立花隆さんは本だけで「知」を築き上げたわけではないのだろう。耳から入る情報もそうだし、体験から得る情報もそう。でもここでは、私は「本」の話をしているので「本から得る知」を書いている。

何度も言うがあの「本棚」に憧れるのだ。うちにも本棚はある。細い本棚と、オーディオが一緒に入ってしまっている本棚。その本棚には洋書も入っているので、単行本の入るスペースは狭い。文庫本は細い本棚に入っている。

将来、夢の部屋がある。

壁一面の本棚があって本でいっぱいになっていて、それからピアノがある部屋だ。ピアノはできればグランドピアノがいいが無理ならアップライトでも構わない。ピアノの上にもやっぱり楽譜が積まれているのがいい。

部屋は狭くていい。

小綺麗でなくても構わない。

大切なものだけあればいい。

なんだかそんな仕事部屋に憧れる。

お皿をきれいに使う人。食と人生。

私はお皿を綺麗に食べる人に目がいってしまう。

お皿を綺麗に食べる人は、単に育ちがいいだけではなくて「食いしん坊」でもあると思う。

食べ方が綺麗な人というよりも、お皿がほとんど汚れていない人。

食いしん坊だから、お皿を綺麗に食べる。

もちろん「食いしん坊」が悪いわけではなく、どんなふうに食べているのか。でも、あまりジロジロ見るわけいかないのでいまだに不思議である。

恥ずかしいことに、それに比べ私のお皿と言ったら、醤油があちこち飛んでいる。

たとえばケーキもそうだ。透明なフィルムを綺麗にはがし、けっしてケーキは倒れずお皿にクリームをつけたりしない。わたしにとって、あの食べ方は「お見事」だ。

私は、美しい食べ方以上に、いかにお皿を綺麗に使うか。これに限る。

そしてもっと大事なことにつながる。生き方だ。

その人の生き方につながるような気がしている。たとえば、丁寧な生き方。辛いことにも向き合える勇気のある生き方。

「食」の大切さって、人生を大切にすること。

だからお皿は大事。

もちろん、表面だけの綺麗さはだめだけど。

もう少し長い文が書けるといいな。頑張ろ。

アタマもカラダも動かない日が続く。

実はしばらく、頭も身体も動かない日が続いている。

こうしてブログを書くこともやっとだ。フェイスブックなどの内容ぐらいならなんとか書ける。長い文章となると、途中で投げ出してしまう。

さて、もうここで何を書いて良いかわからなくなる。

わからないから、書かないつもりでいた持病のことを書く。双極性の場合下がった時がとにかく辛い。

テンションが上がっている時は朝のルーティーンから、将来の夢まで、何がやりたいのか、もうたくさん出てくる。

ところが何かの拍子に気分が下がると、もう「アタマもカラダも動かなくなる」これの繰り返しだった。そして今もそう。

私の中では、もちろんテンションが上がって調子のいい方がいいに決まっている。でもそれではまた落ちるだけだ。だから、今は耐えるしかない。

昔の私なら悪い時は「もういいことなんてない。このまま人生終わるんだろうな」とか考えて寝込んでいたけど、今の私は違う。

「頑張ろう」とか考える。辛いけど。

だから「あなたも」頑張ってほしい。

やっとここまで書けた〜〜!またブログ頑張って書きます!!続けます!

私がなりたい人間とは。

ここ数日、私は「書くこと」を辞めていた。怠さからいっこうに抜け出せず、ブログは書こうとしては辞めることの繰り返しだった。下書きは溜まる一方。

もちろん原稿も。

私は、正直書く気力を失った。それは病気のせいかもしれないけれど、しばらく書いていないと、ピアノを弾いていないと指が鈍るのと一緒で書く思考も鈍る。

ふっとSNSで片手で弾く子供に一生懸命ピアノを教えている動画を見た。ラン・ランだった。

私は、思った。「誰かの力になりたい」と。

偉そうなこと言っているようだが、まだ拙い子供に世界のピアニストが一生懸命教えている姿に、とても心に迫るものがあった。その動画から伝わってきた思いを忘れたくないなと、思った。

なんの経歴のない私が一体誰に何を教えられるのか、伝えられるのかわからないけど、「誰かの力になりたい」という気持ちは強くなった。

何日も自信も無くしていた。上がり下がりのある精神状態で、調子のいい時の私の書く内容はとんでもなく、突拍子のないものだったりする。だから後から読むと恥ずかしくて仕方がない。

経験しかないのかな。毎日毎日続けることかな。

大切なことをどんな人にも教えられる、伝えられる人間になりたいな。

不確かな想い。

好意を持つ人がいます。ですが、特に「恋愛」とはちよっと違うんですね。「告白」といった内容ではありません。

著名人ではありません。

おそらくこの気持ちは、本人に伝わることもないし、顔を合わしているわけでもなく、伝えることはできない遠くて近い距離にいます。

というと、なんだかやっぱり「恋愛」?と思われてしまいそうですが、そんなつもりはなくて、あくまで「好意」だし、おそらくご本人は私がそんな思いがあるなんて絶対、思っていないはずです。絶対に。笑

「あることを達成」したら、実は…と笑い話で話してもいいかなとは思っています。

でもその「あることの達成」も遠い話です。

あくまで「実は…そうだったんです。笑」みたいな会話でいいんです。

でも、私にはそんな気持ちがなぜあるのかまったくわかりません。その気持ちがなんなのかもさっぱりわかりません。

でも誰かにそんな気持ちを持つことって、意外と誰にでもあったりしないでしょうか。

白いバラの花言葉は「深い尊敬」だそうです。

「尊敬」?「好意」?いい人だな、とか。そんな感じなのかもわからないでいます。とにかく一方的な気持ちですね。親近感?でしょうか。しかも遠いんだか近いんだか。

ご本人にこれを読んでもらってわかってもらえないかなあ。笑