久しぶりの投稿。今回は、「自分の体型」について。
私は、学生の頃かなり痩せていた。どのくらい痩せていたのか。今の体重から30kg近くは痩せていた。学生の頃があまりにも痩せていた、というのもあるが、30kgというと、ちょっと普通の体型から遠ざかっているように感じると思う。もちろん今の私を見て「痩せてる」とは決して誰も思わないだろう。
今考えると色々なダイエットと言われるものを試した。
おにぎりダイエット、ジュースクレンズ、プロテインとか。ジムやサーキットトレーニングとか。でもこうやって見てみると、真剣に痩せたいと思っていたのだろうか。
学生の頃の痩せていた私は「太りたい」と真剣に思っていた。それぐらい、痩せている自分にコンプレックスがあった。憧れは「白くムチッとした二の腕」だったのだ。ちょうどバブルの絶頂期、ボディコンが流行っていた頃、それに似合う体型に憧れていた。
いつしか私は、その「願いが叶った」のだ。肉付きのよいふくよかな女性になりたかった私は、その願いが叶ったとはいえ、それを通り越し、医者から痩せるように言われるようになる。それより何より私好みのジャケットが着こなせなくなってしまった。お気に入りはウエストラインが絞られた細身のジャケット。このデザインが好きでみんな似たようなジャケットが増えたが、ウエストのボタンが閉まらない。細身だから腕も細く、私の憧れていた二の腕は、お気に入りのジャケットにおさまらなくなった。さすがにこれはショックだった。医者から痩せるように言われるよりも、自分のお気に入りの服が着られなくなることで、太り過ぎの現実を受け止めなければならないのは残念でならなかった。
と、ここで今日見た朝日新聞デジタル版で見た記事を書く。
世の中には、色々な体型の人間がいるのだから、その体系に合わせたモデルがいても、なんの不思議もない。だが、私たちは、何を持って「モデル=細い=スタイルがいい=美しい」と決めるのだろうか。『プラスサイズモデル』という言葉を知っているだろうか。私が知ったのはアメリカの動画でだった。プラスサイズモデルをしている体の大きな女性を見て、アメリカらしい、などと思って見ていた。記事には日本で活躍するプラスサイズモデルの女性が出ていたのである。「自分の体が大好き」と語る彼女。だが彼女が懸念していたのは、「世の中にはたくさんの『コンプレックス商法』であふれている」ということ。たとえば「『顔のシミ、気になりませんか?』という宣伝文句で私たちの心に『気になる』というコンプレックスを植え付けて、しみとりをうたう商品の購入に誘導する」という商法だそうだ。こんな商業主義がもたらした価値観に引き摺り込まれないためにも、自分の欲望や選択について、ときどき考えてみることが大切。おそらく多くの日本人女性が今まで煽られるように感じてきた『美しさ』って、自然にそこにあるものじゃなくて、社会的に作られてきたものなんですよね。痩せている方が美しいとか、無駄毛がないのが美しいとか。社会に作られた価値観に縛られている」と彼女は語っている。
私は改めて、自信を少し取り戻した。というか、私の価値観は「痩せている=美」ではないと思っている。ものすごく痩せていた自分と、太っている自分の体を見てきているから、私の美の価値観は痩せていることではないと言える。
ただ、医者に痩せるように言われていることは、無視できない。やはり健康あってのカラダなのだ。でも、例えダイエットをしたとしても、私は昔の体型に戻りたいとは思っていない。つまり、30kg落とそうなどとは思わないのである。もっと自分のなりたい基準を考えれば、私は自分の体が今は好き。だから女性らしい体はキープしつつ、ただむやみに痩せたいと思うのではなく、自分の体の声を聞いて、今自分は体のどの部分に無理がいっているのか把握しながら自分の体を創っていきたい。とまあ、それが大人になった私の年齢に必要なダイエット、そして美の価値観なのかもしれない。


