落合陽一という人から考えること。

5年ほど前、私は「文章」というものに、強くこだわったことがあった。文章を書くことを始めて、1年くらい経ったころ。ここから、私の「アート」は始まったのかもしれない。

「バズる文章」が書きたかったわけではなく(当時バズるって言葉あったのかな)。

「美しい文章」が書きたくて仕方なかった。

3年ほど前だったろうか(“いつ”という時間にアバウトである)、私はネットでNewsPicksというビジネス系のソーシャル経済メディア(と書いてあった)をたまに見ていた。

そこで、落合陽一さんの「○○をアップデートせよ」という番組が面白かった。

いろんな著名人が出てくるがAV女優で、いま作家としても活躍している紗倉まなさんも出ていたのを見た。

その頃正直言えば、おもしろい人だからと本を買ってみたところで、結局最後まで読み切ることは出来なかった。興味の対象までいかなかった。

でも、また個展か何かで、彼が撮影した写真を何点か見ることがあった。そんなこんなで彼の名前を目にすることが何回かあった。だんだん「落合陽一」という人に興味は湧いてきた。

とにかくWikipediaを見ると自由で創造の幅が広い!いま、時代はこういう人の時代なんだと思った。

私もまだ落合陽一さんのことはよく知らないけど、これから注目していきたい。そして、感性に共感できたら楽しいだろうな。

最近ハマっているのは、

落合陽一さん

ラン・ラン(とても好き。笑)

だけど、いまの若者は先述したが本当に自由人だ。

私も物書いたり、芸術に関したことがしたいなら、もっと勉強して、自分の世界をつくりたいなあ。

こんなこと書いて、また、意識高い系になるのかな。

そして、メルカリ。

ついに、メルカリでモノを売ってみた。面倒そうなのでなかやる気にならなかった。わたしは精神的に気分が悪くなると、物欲というか、モノに対しての執着がなくなって、周りにモノがあることでさらに気分が悪くなる。これはいいことだが、調子が悪いのだからあまり歓迎しない。で、調子が良い今の時期に売ることにした。わたしが出品するものは、洋服が主。もうわたしの年齢的にも体系的に似合わなくなった服が、いまだにクローゼットを占領していた。

それにしても、思う。「モノは少ない方がいい」と。どこかに行かなくてはならない時がいつ、どんな時に来るかわからないし。

さっそく試しに売ってみたのだが、お金儲けのための値段をつけると売れないことがわかった。ジャンク品扱い程度の金額をつけて出品してみた。いきなり質問が3件ばかりきた。すぐに売れるのかと思いきや、しばらく携帯は静かだった。3時間ばかりで、買い手がついた。

でもストレスになるくらいなら、いっそ売ってわずかなお金でもなる方がいい。いや、わたしの過去の服やら靴は「それなりの値段」がしたモノが多いのに、10年も経てば、二束三文なのである。だが、欲をかいてはいけない。

それより、感心したのは、このメルカリのシステムを考えると、キャッシュレスの時代なんだなあと、つくづく思った。スーパーもそうだ。ポイントカードをつくって、地道にポイントを貯めてそれが現金として使える。

なんとなく、メルカリのシステムって、ヤフオクの欠点をついて出来た感がある。

そしてわたしは、ダイソンのドライヤー5万円なるものを購入した。現金は使っていない。売ったお金で、購入した。ちょうどドライヤーが壊れていたので、よかった。なかなか良いものを買えたと思う。現金だったら、買わなかっただろう。

それにしても、「財布持たずにキャッシュレス(?)」なんてかっこいいし、「忘れるときは出かけずに(古い。あれ?出かけるときは忘れずに?)」なんてキャッチーだったと改めて思うけど、まだまだ現金は手放せない。

私は、意識高い系。

つまり、虚栄心が強い。

そう、私は自分を俯瞰することもできる。なんて言ってみる。

ただし、私が伝えたいのは「ハマる」ってことで、一つのことをどれだけ知ることができるかであり、付け焼き刃なんかじゃなく、難しい言葉使って分かったフリをするわけでもないのですね。

優しい言葉でわかりやすく伝えられるか。

以下の内容は、「いま意識高い系である私」が語ること。いま、私は原稿を書くために、世の中面白いことないかな、と内容もおぼろげにビジネス書をパラパラと常にめくっている。そんなことが楽しい。要は、人がどうしたら「楽しいこと」を見つけらるか。

楽しいこととは、「仕事の効率性」だったり、「遊びの充実度」だったり、「学びのセンス」であったり、つまり「人生を豊かにする」にはどうしたらいいか、考えるのです。人の受け売りでも、最終的には私が考えなければ説得力はありません。

私に何ができるだろうか。

創造の世界、新しい何かを考えることは、とても楽しいし、大事なことだと思っています。好きなことやってるんだからラクなのかと言えば、それはまた違うんですよね。ただ、どんなに大変なことでも、吸収できるんです。好きなことに「ハマる」のは、いくらでも、深く深く掘り下げていくことができるのです。

あ、でも私はビジネス書を書いているわけではなく、ビジネス書で得られた知識を、「何かの場面、もしくは分野で活かせないだろうか」と考えています。「創造」するということはとっても楽しけど。

「創造する」ためにはもっともっと、その「何か」に焦点を絞って。貧欲にむさぼらないと。深く深く掘り下げること。

これからは少しは人のためになること、書きたいね。

花をあしらう。

花は大好きで、どんな花でも、家では目につくところに置いておく。たいてい机の上。

前に、新宿伊勢丹のリビング階にお花を売っているコーナーがあって、しかも店員はイケメン揃い。これって戦略じゃないのかな〜とか思いながらも、伊勢丹行くたびによく1,000円2,000円で買える旬の花を選んでもらっていた。けっこう通ったから、顔も覚えられてしまっていた。

でも、しばらく行っていなかったら、その花コーナーは、イケメン共々消えていた。とても残念だった。イケメン店員のことではなく。

むかし私が勤めていた会社を辞めるときの送別会で、花束をもらった。すかさず男性社員が「花束もらって嬉しいの?」要はこの人が言いたかったのは、「花束なんかで嬉しいの?本当は物の方がいいんじゃないの?」ということだった。皮肉の入ったことばを言ってきた。

何言ってんだか。嬉しいに決まってるじゃないの?ん?決まってなんかいない。たしかに「花をあげれば女性は喜ぶ」とは、いまでいうジェンダーの視点に触れるのかな。身近な話。

でも、今は便利。花を自宅まで届けてくれるのだ。一回1,500円〜で2、3本のお花をポスト投函してくれる。私なんかは、机にしか飾らないので、これで十分。いまでは、そういったサイトがいくつかあるので、お試し中。

もちろん、お花の質も良いです。

芸術や文芸に興味ない人は人生の3分の2を損している。

芸術に興味ない人は、人生の3分の2を損している。芸術や文芸などというと、日本人は取っつきにくく感じるかもしれない。しかし、特に日本の文化に触れることで、感度を敏感にすることもできる。自分にはどのような芸術が感情移入しやすいか、そうやって養わされる直感も「仕事や遊び」において必要な時期がくる。

芸術は、生活の中にある。そして、芸術は人間の感受性を豊にしてくれる。誰でも少なからず芸術やフィクションの世界に没頭したことはないだろうか。人は生まれて成長していく過程で、そばに必ず「芸術」がそばにあった。

しかし、現代の日本は「芸術」に対して、日常的に寄り添う気持ちが遠のいてはいないだろうか。

上の浮世絵は、歌川広重の「名所江戸百景 猿わかまちよるの景」で、現在の台東区浅草付近にあたるそうだ。この人々は芝居帰りのようである。私はこの作品がとても好きだ。この絵からすると、娯楽といえば、お芝居、という時代に人々が集う温かな気配を感じる夜の街だから。

今、コロナ禍で「何か」が変わり始めているこれからの新しい生活に、もう一度娯楽や社交の場を見つめ直すのもいいかもしれない。私たちは個々の美意識やまた見る目を養うことは必ずしも必要でないと遠ざけてしまった。今こそ芸術がもたらすものは、仕事、遊び、学びにおいて人間性を高めてくれる。

芸術が人の感性や研ぎ澄まされた感度を磨く。文化はそうやって、発展していく。

必要以上に話さないわけ。

「コミュ力」や「コミュ障害」は多くの人が耳にしたことのある言葉だと思う。私はあらゆる「障害」について考えたことがある。その中で、自分も「コミュニケーション障害」なんじゃないかと疑った。

雑談がとにかく苦手というか苦痛。必要以上に離さないことがいいことなのか、私はいまだにわからない。

横との(友達との)繋りが上手くいかないのか、ただの人見知りかなとか、ただ単に他人と会話することが苦手なのかとも考えた。でもそれは他人に対してだけでなく、身内に対しても同じ苦痛を伴うことがあるのだ。例えば、母親との電話で会話が弾まない時がある。何か話さないと……!その時なんとも言えない嫌な気分が襲う。そんなことしょっちゅうだ。今はもういないが、父親なんてもっと酷かった。あまりにも苦痛で、何も話せず、その場に一緒にいたくないと思っていた。

しかし歳をとるに連れて、つらかったことが、当たり前のように感じてきてしまうようになった。若い頃のように悩むことは無くなったが、相変わらず雑談の下手な私でも、いろんな方々に触発され日々を過ごすようになってきた。

でも、最近わかってきたのは、雑談が苦手なのは障害でもなんでもなくて、空気を読みすぎてしまうことなんだって。そう言われてみると、私は場の空気を異常に気にしてしまう。常に人の顔色を伺って生きてきた。そういう自分が面倒でならなかった。

いまの私は『いくつかの(人と繋がっている)糸』(糸といえば芥川龍之介?)、つまり結びつきによって、救われている。『いくつかの糸』とは、自分を心底楽しませてくれるものごとであったり、人物だったりする。

たとえば、私の好きなクラシックの話になるが、私はピアニスト ラン・ランが好きで、彼が弾く「バッハのゴルトベルク変奏曲」がとても好きだ。この曲は美しい。私はこの曲があることで救われるし、幸せだ。

つまり、何が言いたいかというと、さっき書いた『いくつかの糸』とは、芸術でもいいし、趣味でもかまわない。たまたま私は、ピアノのことが好きで書いたが、『いくつかの糸」が2つ、3つあれば、繋がりがあることで不安から救われる。

「そんなの自分にはない」と思っている人にも、必ずある。必ず現れる。

それから、『いくつかの糸』が「人との繋がり」だとしたら、2、3本あればたとえ一つ切れたとしても、落ちなくてすむ。

心の中で描いている、大切な趣味や人との付き合いを「磨くこと」は、決して自分を裏切らない。

痛い、六大学野球の思い出。

私は六大学のどの大学にも行っていません。けれど私はいつも友達に誘われて、明治神宮野球場になぜか「東京大学」の出る試合にばかり足を運んだことがあります。当時私は野球にも、六大学野球そのものにも興味がなかったので、誘われるがまま行きました。私の記憶が間違えていなければ、東大は最下位で、毎回負けていた印象があります。

友達はなぜその「東京大学」の応援だったのでしょうか。あとになり、答えがわかった気がしています。本人に事の真相を聞いたわけではないので、あくまでも私の推測ですが。

そうやって毎回試合を観に行っていると、だんだん周りで応援している人の顔に意識がいくようになりました。応援団やチアリーダー、特にチアリーダーの女の子は、とてもかわいい「東大生」がいたのを覚えています。

いつからか、私は東大の応援団長さんと何回か電話でやりとりをすることになっていました。(いきなり話が飛躍してしまいすみません)ちなみに彼は鳥取から上京してきた法学部の学生さんで、細面のハンサム、今でいうイケメンでした。

ここまでは良かった。笑 そして、デートをする約束になっていたのですが、なんだか話が噛み合わなくなってきたのです。彼はマウンティングしてくるようになってきました。当時の私は東大生相手に、自分の主義主張なんて言えませんでした。というか、私も自分は下になることで逃げていたのかもしれませんね。なので、彼もきっと、私をつまらない女の子に思えてきたのでしょう。

彼はショッキングなことを言ってきました。私の友達の方がいいから、もう電話も会うこともないと。私は友達にそのことを伝えました。その後2人は会った、と言っていました。私「……」。

まあ、今だから笑って話せることですが、その時は人間不信、といいますか、「高学歴の人って、こんなもの」と思っていました。今は思っていませんが。笑

その友達は、弁護士と結婚したと聞きました。それでなんとなく納得したことは、私を東京大学の試合に誘ってきた理由です。ステータスのある人と結婚したかったのかと。それについて、私は彼女に真相を聞いたわけではありません。

彼女に幸あれ!

ところで、彼は今何しているんだろ。今なら主義主張できるよ。と応援団長をしていた彼に言いたい。

この時代、声は重要なファクターです。

最近気付いた。

人はまず見た目から入る。見た目はたしかに大事!でも、実は見た目と同じ、もしくは見た目以上に気を使うべきところがあった。

それは【声】。

【声】が、容姿以上に大切だと思った。驚く発見になった。それは、スピーカーから聴こえてくる、よく通る澄んだ声を耳にした時だった。

あ、この方はこんなにクリアで、いい声をしているんだ。と思った。想像していた声と違っていた。

それと同じことが、YouTubeでもあった。

ガジェット通の女性をFacebookでフォローしていたので、その女性がしゃべっている動画は音をオフにしてもう何度も観ていた。

つい最近、YouTubeで初めて彼女の【声】を聴いた。

可愛らしさの中にも、落ち着きのある、聴いていて飽きさせない、そんな感じの【声】だった。やはり想像と違った。

一瞬で聴き惚れ、ファンになりチャンネル登録もした。

【声】ってこんなに大事なファクターだったのだ。

【声】だけで好印象を与えるのだから、【声】でがっかりさせてしまうこともある。オンラインのいま、澄んだ声でアピールする時代…にもなるか。私、ボイトレしたいです。ほんと。

半世紀生きようとする女が、しなやかに生きる、これから。

幼稚園の頃から、ピアノやバレエを習わせてくれた親に、私はとても感謝している。芸術を目の当たりにして、何かを感じずにはいられない、心から湧き上がってくることを一生感じていたいと思うからだ。

私も気づけば半世紀生きようとしていることに、過去を振り返るよりも、残りの数十年をやり残すことのないように、ひとつひとつ丁寧に生きていきたいと思う。私の切なる願いでもある。

歳取ると、どうしても、心が、頭の中がしなやかに対応出来なくなってくる。大切な人が、道をさとしてくれているのに、何度も同じことをやってしまうのだ。もっと多くのことを、柔軟に受け入れられることができたら……、それは私の理想、夢なのである。

私のまず大きな願いは、しなやかな感覚の持ち主でいたいこと。これは死ぬまで、そんな人間でありたい。

そのためには、多くの若者たちの声を聞きたいし、自分を解放することも必要。人との出会いや、常に芸術に触れる生き方ができればと思います。

これからは、無駄なことを減らして、真の意味で心を解放できる道に歩いて行きたい。

あなたに、ついて行くために。

真面目とは、心がここにあるかどうか。

原稿を書いていてふと思い出した。「真面目ですね」と言われることがある。「真面目」と言ってもいろんな捉え方があると思うけれど、勉強がデキる人を真面目と言ったり、博識な人を真面目とか言ったり、誠実な性格の人のことも「真面目」で括って言ったりする。一体わたしのどこが「真面目」なのだろうか。

わたしを知っている人は、おそらく真面目なんて思わないと思う。え、真面目とは違うんじゃない?って。自分でもそう思う。なぜなら勉強は嫌いだった。学生時代を振り返れば、中学生までだろうか、勉強が楽しいと感じてまともに勉強したのは。

もっとピアノの練習を真面目にしておけば良かったと思うし、中学の頃好きだった英語もその後も身につけておけば良かったと思う。性格を言えば、結構適当だったりするしなぁ……。

でもそんなわたしが病気になったことを考えれば、「適当」ではなく「真面目」だったのは納得できる。なぜなら「真面目」という字を見ると、「真っ正面」という言葉ととってみれる。つまり、わたしの性格は真っ正面からぶつかっていこうとしてしまう性格だったりする。避けることも必要であって、時には何かを手放すことも必要だし。多くのことに執着し生きてきてしまった。

そう考えれば、要領よく生きて来れなかったわたしがある意味「真面目」だということは納得できる。

そんなわたしがいま自分で確かにフィクションの世界でなく、なぜか人との接点が多くなるノンフィクションというジャンルを選んだ。というか、書いて誰かに伝えるための手段だったと言っていい。それも真面目というのかな?人生の中には、あえて避けていい道もある。

でもそんな自分を大切にすることも、他人に対して敬意を払えるかどうかなんじゃなかろうか。

ちょっと最後が尻切れトンボになった気がする。笑

「君は不器用 なんかじゃなくて こころがここに あるかどうか」